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●山南敬助【やまなみ けいすけ】
◎愛された理想家。新撰組の参謀

山南敬助
 天保4年(1833年)、陸奥仙台の剣術師範の次男として誕生。
 山南は様々な謎と憶測の中で語られる一人であり、伊達藩脱藩とあるも、伊達藩には山南姓がないことから、偽名もしくは藩士ではなかったとされる諸説がある。また、彼は新撰組結成当初から参謀的役割を担っていたこともあり、文武両道に秀でた人物と推察されるが、何を何処で学んだかと言う記録には言及されていない。学者肌であったことは事実である。分かっているところでは、江戸の千葉道場にて北辰一刀流を学び、免許皆伝。もともと尊王攘夷論者であり、同門の八郎とも結びつきが強かった。

 山南と近藤 勇の出会いは他流試合からであった。
 山南は試衛館天然理心流・近藤と立ち合い敗れるものの、近藤のその気質に惚れ込み彼の門下に入ったと言われる。
 文久3年(1863年)、師範代として、沖田総司と共に多摩への出稽古を行っている。同年、八郎が提案した幕府の「浪士組」結成に、試衛館天然理心流一門の近藤、土方、沖田らと共に参加し上洛、しかし、京入りした途端、八郎が尊王攘夷の魁たらんと称え、浪士組は江戸へ戻ると言い出したため、八郎に意を表し、一門、芹沢一派らはそのまま京壬生に残ることとなる。一同は鵜殿鳩翁らの計らいもあって京都守護職で会津藩主・松平容保のお預かりとなり、ここに壬生浪士組が誕生した。同年、8月18日の政変でその存在を知らしめた彼らは、その日のうちに松平容保から市中見廻りの内命を受け、その通達の文書によって「新選組」の名が与えられる。新選組副長、総長を歴任する。
 山南は愛嬌のある顔で、性格も温厚で、隊内のみならず、新撰組を恐れていた壬生界隈でもその人柄を愛されたと言う。沖田総司が特に親しかったらしく、沖田同様子供たちにも好かれ、親切な人、という定評があった。
 その反面、剣を極めた武人でもあり、頑固な面も持ち合わせていたようだ。上洛の際、一組の統率者である山南と、目付役・村上俊五郎(虎尾の会一員)との間に一騒動があった。山南は頑に譲らず、村上も同じく頑固者であったが、村上が山岡鉄太郎らに説得され、帯刀せずに謝罪を申し入れた事でようやく事が収まったという逸話が残っている。
 ただ、山南は病に臥することが多く、元々学者肌で尊王攘夷論者であった山南は、尊王思想でありながら結果的に佐幕の立場となった新選組に行き詰まりを感じ始める。後に総長の名の元、実質的な役職からは排除された形になっていることから、やがて新選組の在り様と意義に疑問を持ち孤立してゆく。
 慶応元年2月、山南は隊を脱走する。しかし、隊規を知らぬはずがない山南が、、わざわざ書き置きを残し、しかもさほど離れていない大津で投宿していたとされる。 その行動は実に不可解であるが、剣を極め、学を極めた山南にしてみれば、それを生かす場を得る事が出来なかった悔しさが、あるいは自らの死を散らせようとしたのかもしれない。
 沖田総司によって追跡され、2月23日壬生屯所にて隊規違反の咎により切腹する。享年33歳。
 山南の葬儀には、隊士だけでなく壬生界隈の人々も多く参列し、その哀しい男の死を悼んだと言う。
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