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天保3年(1832年)5月25日、薩摩に生まれる。薩摩藩郷士。
幼時より資性豪邁で衆に優れていた。15歳の時喜入郷より鹿児島城下に出て、島津斉彬の侍医東郷泰玄に医学を学び、のち長崎で蘭学を学んだ。安政元年はじめて江戸に行き、大山綱良・美玉三平らと往来し、また諸藩の有志と交わり国事を議した。同4年脱藩して大坂・京都に出て田中河内介・桜任蔵らと交わった。
八郎とは山岡より付き合い長く、『虎尾の会』の一員にいち早く名乗りをあげ、攘夷のさきがけをなさんとして、万延元年12月、ハリスの通訳であった米国公使館通弁官ヒュースケンを斬った一人である。文久元年、八郎の町人斬り事件後、八郎・安積五郎らと水戸に潜入し、志士の決起を支持激励した。
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たまたま幕府に廃帝の企てがあるのを聞いて老中安藤信正の襲撃を計り、ついで八郎とともに京都に入り田中河内介らと謀り、河内介の書を携えて西下し、肥後の松村大成を訪ねた。平野国臣とともに薩軍に入り「攘夷英断録」を島津久光に呈してその奮起を促した。また福岡藩主黒田斉溥が久光の公武合体の上京周旋の挙を止めようとしている事を知り、播磨国大蔵谷において斉溥に説こうとして藩地に送られ、喜界島に流された。のち許されて京都に入り西郷隆盛の寓所に在った。
慶応3年西郷の密命を受け、尚平、益満休之助は関東の浪士・相楽総三と共に江戸に下った。江戸薩摩屋敷を根拠地として浪人を集め、江戸の内外を騒がせ、幕府を挑発して武力討幕戦争のきっかけを作った。薩摩屋敷で幕府の攻撃を受けた尚平らは囲いを破って品川に停泊していた薩摩の軍艦翔鳳丸に乗って上方に逃亡、事の次第を西郷に報告して大いに喜ばれ面目を施した。しかるにこの頃京都や大津で辻斬り強盗が起り、それが尚平の部下であるという責任を負わされ京都二本松の藩邸で自刃させられた。
明治元年(1868年)2月、37歳だった。
尊攘志士として維新の夜明けを迎えようという時期に無実の罪で殺された尚平を悼んで郷里の喜入には記念碑が残っている。。
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