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●藤本鉄石(津之助)【ふじもと てっせき】
◎少年・八郎に影響を与えた文武両道の志士。天誅組総裁

藤本鉄石
 文化13年(1816年)3月17日、備前国御野郡東川原村(岡山市)に生まれる。
 岡山藩軽卒。幕末の尊攘派志士。父は片山佐吉、母は佐幾、4子で二男。
 
 天保元年(1830年)、15歳で岡山藩軽卒で叔父の藤本彦右衛門重賢の養子となった。同藩農事掛(用水番)の手代役を勤め、養父の死後、故あって天保11年(1840年)に脱藩して京都へ出て、軍学を学び、遍く天下の志士と交わった
 
その後、同14年(1843年)年より東北から江戸、中国そして九州を遊歴し、各地の名士、豪傑、奇傑らと交わるとともに学問、書画の力を磨いた。
 文遊学の折、弘化3年(1846年)、藤本は清川村の斎藤家に立ち寄っている。八郎の祖父・昌義はえらく藤本を気に入り、客人として藤本の面倒見ている。藤本も斎藤家を気に入り、1ヶ月ほど清川に滞在している。八郎(元司)17歳のときで、この時は酒造商屋の跡取りにすぎなかった。八郎自身、藤本に強い興味を抱き、日本各地の話、異国の話など、さまざまな話を聞くことになる。藤本との出会いが少年八郎に多大な影響を与え、この後、八郎は立志のもと江戸への遊学を願うようになる。後の清河八郎たる人物を開眼させるきっかけを作ったのが藤本であったのかもしれない。
 藤本は、和歌、漢詩に優れ、書画を能くし、兵法では甲州流と長沼流の免許を取得しており、思想信仰の中心をなすものは天照大神で、勤王の志深く、とくに国典に通じていた。

 安政元年(1854年)伏見奉行内藤正繩に招かれてその部下を教え、伏見京町の私塾である言志塾(碧梅寒店)で学問(国典)、武道、兵法を教えた。しかし、大老井伊直弼の独断の日米条約調印には憤り、激しい尊攘論を主張するようになる。
 
 文久2年(1862年)、藤本は京都で八郎と再会することになる。藤本は、八郎とともに、薩摩藩主・島津久光の率兵上洛を機に尊攘挙兵を画策をしていたと言われる。しかし、寺田屋の変でその画策は挫折する。藤本はそのまま京都を拠点に尊攘挙兵を画策し、関東に戻った八郎は、その翌年、八郎が発案した「浪士組」とともに上洛している。上洛直後の八郎の回天の策を聞きつけると、八郎のもとにいち早く駆けつけ激励する。浪士組は残留組と東帰組に分裂する。京で尊攘挙兵を画策していた藤本は、同年3月、浪士組東帰の際、八郎にこんなエールを送っている。

同日付清河八郎宛藤本鉄石書簡には、「愈(いよいよ)明日は御出立遺憾遺憾。但し申迄も無之候得共為皇国御努力努力」

 八郎との別れを惜しみ、今後も皇国のために努力せよとするメッセージであった。
藤本の八郎に対する思い入れの強さを感じるエールである。
 しかし、八郎東帰直後、藤本は、尊攘挙兵の画策を疑われ、捕らえられて大阪薩摩藩邸に軟禁される。
 
 翌文久3年(1863年)年8月、土佐の吉村寅太郎、三河の松本奎堂(謙三郎)らと謀り、中山忠光を奉じて義兵を大和に挙げ、天誅組と称して藤本は総裁となり、天皇の大和行幸の先駆けとして五条代官所を襲撃。五条代官鈴木源内を殺して勤王の士を招いた。
 この直後京都で8月18日の政変が起こり、幕府は和歌山、津、彦根の諸藩に天誅組の討伐を命じた。数日の激戦の後、頼みとする十津川郷士にも離反され、吉野山中を敗走、血路を紀伊尾鷲の方面に開こうと西に向い、鷲家口(奈良県吉野村)で和歌山藩兵に囲まれて戦死した。
 
 文久3年(1863年)9月25日、享年48歳。
 

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