八郎ホーム 回天ブログ 清河八郎記念館 清河八郎 年譜 清河八郎関係人物録
清河八郎人物図鑑 回天の魁士 清河八郎物語 清河八郎リンク

NAVI庄内バナー

●真木和泉【まき いずみ】
◎明治維新の中心的指導者

真木和泉
 文化10年(1813年)3月7日、筑後国(福岡県)久留米瀬下町に、筑後国久留米水天宮の祠官・真木旋臣(としおみ)の長男として生まれる。
 文政6年(1823年)、父の死により家督相続、久留米藩中小姓格に列し、水天宮祠官となる。天保3年(1832年)、京都で従五位下に叙任、大宮司真木和泉朝臣保臣と称した。
  弘化元年(1844年)、尊攘を唱える後期水戸学に目覚め、江戸に出て7月同学の大成者会沢正志斎に面会し影響を受け、また安井息軒、塩谷宕陰、橘守部らと往来した。9月久留米に帰り、木村三郎、村上守太郎らと水戸学(天保学)の影響下にある天保学連の中心となる。
 同3年(1846年)3月、藩主有馬頼永に藩政改革意見を上書した。
  同4年(1847年)9月、孝明天皇の即位式拝観のため上洛し三条実万、東坊城聡長、野宮定功ら公卿、小林良典ら堂上諸大夫の知遇、面識を得た。
 
 嘉永5年(1852年)、稲次因幡、木村三郎らと執政有馬監物らを排斥しようとする藩政の改革を企てるが失敗、嘉永の獄で5月「三里構い」となって下妻郡水田村(筑後市大字水田)の実弟大鳥居啓太の家に蟄居を命ぜられた。以後11年におよぶ幽閉中、開国の進展に応じて諸国の尊攘志士と交流し公家に建策し、文久元年(1861年)、「義挙三策」を著し王政復古を説いた。
  同年(1861年)12月、逃亡中に尊攘の遊説に尽力していた八郎と出会い、八郎らと会議し、翌2年(1862年)2月、脱藩して鹿児島に脱出、大久保利通、有馬新七らと島津久光の上京をはかった。同年4月に大坂で田中河内介らと挙兵をはかったが、寺田屋の変で挫折し、捕らえられて7月久留米に護送幽閉される。

 文久3年(1863年)1月、朝廷の沙汰により赦免されるも、4月に藩是を尊攘一途とすべきことを藩主慶頼に建言、親兵頭取となったが、保守佐幕派の反撃である「和泉捕り」により拘禁される。5月に公卿中山忠光、長州藩関係者の奔走で釈放され、長州へおもむき毛利敬親父子に謁見して攘夷親征、討幕を説き、6月に上京し学習院御用掛となった。8月18日の政変後攘夷親征、大和行幸計画に従って三条実美らとともに長州に下る。10月、「出師三策」を著して軍事力による朝廷奪回を主張。

 元治元年(1864年)7月、禁門の変では久坂玄瑞、来島又兵衛らとともに浪士隊清側義軍の総管として長州軍に参加する。追い詰められた長州ではあったが、朝廷に攻め入る形となることに戸惑い始めていたとき、真木はこう言った。
「朝廷に攻め入るという形は足利尊氏であっても、志が楠正成であるならばよいではないか。」
この一言で、一気に士気が高まり、進軍を決める。
 しかし、7月19日、堺町御門を目指して進軍したが、福井藩兵などに阻まれて敗北、天王山に退却するも、真木は長州へ敗走することを拒否し、7月21日、同志16名とともに天王山にのぼり時世の和歌を残して自刃した。

 元治元年(1864年)7月21日、享年52歳。

     大山の 峰の岩根に 埋めにけり わが年月の 大和魂  


   八郎ホームへ  回天ブログへ    人物目次ページへこのページのトップへ


各ページに掲載の写真・音声・CG及び記事等の無断転機を禁じます。
Copyright(c)2006 回天の魁士 清河八郎 All rights reserved.      | プライバシーポリシー