和 暦
【西 暦】 |
年齢 |
清河八郎 年譜 |
世の中の動き |
天保元年
【1830】 |
1
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10月10日-清河八郎、庄内藩清川村の大庄屋格斎藤家の長男として誕生 |
伊勢お陰参りが流行する |
天保4年 【1833】 |
4
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斎藤家に義賊が入り、預かり米が奪われる。15名が処刑される |
前年から「天保の大飢饉」始まる。各地で打ち壊し起こる |
天保7年 【1836】 |
7
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父から『論語』の素読を受ける |
飢饉により東北で10万人が死ぬ |
天保8年 【1837】 |
8
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大塩平八郎の乱 |
天保10年
【1839】 |
10
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鶴岡の伯父に預けられ塾に通う |
蛮社の獄 |
天保11年
【1840】 |
11
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八郎の妻となるお蓮生まれる |
アヘン戦争始まる(〜42) |
天保12年 【1841】 |
12
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天保の改革始まる(〜43) |
天保13年 【1842】 |
13
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清水塾を退学になり清川に戻る |
倹約令を下す |
天保14年 【1843】 |
14
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清川関所役人・畑田安右衛門に漢学を学ぶ。 |
水水野忠邦失脚 首席老中阿部正弘に |
弘化元年 【1844】 |
15
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学問で身を立てようと決意する 「四方の志」 |
フランス、琉球(沖縄)と貿易始める |
弘化3年 【1846】 |
17
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藤本鉄石が滞在。大いに影響を受ける
酒田の伊藤弥藤治に剣を習う |
米国司令官ビットル来航。通商を求めるが幕府は拒否。 孝明天皇、海防勅諭を幕府に |
弘化4年 【1847】 |
18
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家家出し、江戸の神田お玉ヶ池『東条一堂塾』に入門 |
関東の沿海防備を強化 |
嘉永元年 【1848】 |
19
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叔父・弥兵衛らと関西旅行 弟・熊次郎病死のため帰郷する |
品川に砲台を建設 佐久間象山、洋式大砲を造る |
嘉永2年 【1849】 |
20
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清川にとどまり家業をたすける |
外国船が近海に多く出没する |
嘉永3年 【1850】 |
21
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3年間の遊学許可を得て、京都、九州を旅する。 長崎・出島を見学 |
佐賀藩、製鉄用の反射炉を建設 江川太郎左右衛門、伊豆に反射炉建設 |
嘉永4年
【1851】 |
22
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北辰一刀流千葉周作道場入門、剣を学ぶ 東条一堂塾塾頭の話を断り、転塾を考える |
アメリカ船、ジョン万次郎らを送りに琉球に来航 |
嘉永5年 【1852】 |
23
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安積艮斎塾に転塾。塾頭・間崎哲馬(土佐)ら各地からの遊学生と知り合う 北辰一刀流初目録を受ける 浦賀で黒船を視察 |
オランダ商館長、翌年アメリカ来航計画を告げる。 上野彦馬、写真機を使う |
嘉永6年 【1853】 |
24
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帰郷し酒田から蝦夷へ渡り海防視察 斎藤家、大庄屋格になる |
ペリーが浦賀に来航し、幕府に開港を迫る。江戸は大混乱に陥る。 |
安政元年 【1854】 |
25
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安積艮斎の推薦で最高学府・昌平校に入学するも失望し、神田三河町に清河塾を開く
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ペリーが浦賀に再来し、3月、日米和親条約締結。下田・函館2港開港。 江戸に震度5の地震 |
安政2年 【1855】 |
26
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母を連れて伊勢参り(『西遊草』) 湯田川温泉でお蓮と出会う
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安政の大地震【震度7】、江戸で死者4千人以上出る 首席老中、阿部から掘田へ。 長崎海軍伝習所開所。 |
安政3年 【1856】 |
27
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清川で著述に専念。その後、仙台でお蓮と新婚生活を送る |
7月−米国総領事・ハリス来日。 吉田松陰、松下村塾を再興する |
安政4年 【1857】 |
28
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駿河台淡路坂に2度目の塾を開く
*この年、千葉道場で山岡鉄太郎と出会い親交を深める。山岡、義兄高橋泥舟に清河を紹介
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清国のアロー号事件、太平天国の乱が伝わる |
安政5年 【1858】 |
29
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北辰一刀流中目録免許を受ける |
大老・井伊直弼、勅許無しの日米通商条約調印。 江戸でコレラ大流行。米が騰貴する |
安政6年 【1859】 |
30
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帰郷の途中、各地で剣術試合をする 神田お玉ヶ池に三度目の文武指南塾を開塾。 |
貿易が始まり、物価が急上昇する
安政の大獄、吉田松陰らが処刑される
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万延元年 【1860】 |
31
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お玉ヶ池塾に尊攘派が集まるようになり、「虎尾の会」結成。
山岡鉄太郎、松岡万、池田徳太郎、美玉三平、村上俊五郎、薩摩藩士・樋渡八兵衛、益満休之助、伊牟田尚平ら
12/15-虎尾の会の益満休之助、伊牟田尚平、樋渡八兵衛、通訳ヒュースケンを暗殺し、幕府に監視される |
勝海舟ら咸臨丸で渡米
桜田門外の変、水戸浪士により、大老・井伊直弼暗殺される。 |
文久元年 【1861】 |
32
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幕府の手先を斬り逃亡。妻・同志8名が入牢。京都挙兵を策し九州遊説 |
水戸浪士、イギリス公使らを襲撃。 和宮、降嫁のため江戸へ |
文久2年 【1862】 |
33
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寺田屋の変で同志を失う。罪を許され「浪士組」編成の許可。
妻、お蓮死す |
坂下門外の変坂下門外の変
和宮降嫁
寺田屋の変
生麦事件
将軍家茂、攘夷を奉答 |
文久3年
【1863】 |
34
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浪士組、京都へ行き新撰組と分離
4月13日- 八郎、江戸で暗殺される |
薩英戦争。 天誅組の変 8月18日の政変 但馬生野の変 |
八郎没後、薩摩と長州が同盟(薩長同盟。坂本龍馬が仲介)し、急速に倒幕運動が進み、慶応3年(1867)、大政奉還。そして明治元年(1868)、勝海舟及び虎尾の会同志・山岡鉄太郎、益満休之助らの働きによって「江戸城無血開城」がなった。明治41年(1908)、八郎没後45年、正四位を贈られる。 |