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文天保5年(1834年)、阿波国美馬郡貞光村に生まれる。大工、建具師。
剣術に非凡な才能を示し、下総佐原で剣術の道場を開いている。気性が荒く粗暴な気質であった。石坂周造と知り合い、江戸に出て、八郎の「虎尾の会」に参加することになる。 八郎に捕縛の手が伸びた時、八郎とともに逃亡し、潜伏生活を送ることになる。その期間、各地で尊皇攘夷の遊説を行っている。
文久3年、八郎発案の「浪士組」とともに上洛し、その際、道中目付兼六番組小頭となる。草津付近で、村上は六番組三班隊士の乱暴な行為に憤慨して、班長の山南敬助(後の新撰組)に
「隊士の規律を乱さぬよう、しっかり取り締まってくれ!」
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と注意したことが発端で、山南と大喧嘩になったことは有名な話である。上役で同志の
山岡鉄太郎らが仲介に入り、村上に謝らせたという一幕があった。
八郎暗殺後、石坂周造とともに5年間の入牢生活を送るが、山岡の庇護の下、放免される。
明治維新後は、両国橋の真ん中で立小便をし巡査に捕まったこともあり、その粗暴な気質は明治になっても直るものではなかったが、山岡の推薦とその大胆不敵さが、
勝海舟に気に入られ、勝の腰巾着として重宝されるようになる。妻は勝の妹・順子で、幕末に暗殺された佐久間象山の妻でもあった。順子は村上と同じく型破りな性格で、勝自身も苦手としていたが、さすがの村上も手を焼かされたという。
明治34年6月21日、享年68歳。東京台東区谷中の全生庵に眠る。
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