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●宮部鼎蔵【みやべ ていぞう】
◎池田屋事件に散る。

宮部鼎蔵
 文政3年(1820年)、肥後国益城郡田代村(熊本県御船町)に生まれる。肥後熊本藩士の尊皇攘夷派。
 代々医師の家系で、叔父である宮部増美の養子となる。山鹿流軍学を学び、30歳で熊本藩に召抱えられ、林櫻園に国学などを学ぶ。長州藩の吉田松陰との出会いがあり、嘉永3年(1850年)に東北旅行に同行している。尊皇攘夷に目覚め始めたのがこの頃だと言われている。  
 文久元年(1861年)、肥後勤皇党にその名を連ね、党の中でも中心的な人物となる。文久2年(1862年)、八郎の九州遊説の折、中山大納言家の諸大夫であった田中河内介の紹介で肥後に参じている。八郎は中川大納言が攘夷に立つにあたり、肥後の有志も参加するように説きに来たのだったが、肥後勤皇党員たちの信用を得られず、やむなく熊本を去っている。
 この時、宮部、河上彦斎らは八郎の志を汲み、党内で必死の説得に当たっている。熊本を去った八郎が薩摩に向かい、薩摩藩主・島津久光を説得し、兵を率いて上京させることに成功すると、宮部はさらに藩論を尊皇攘夷に導こうとしたのだが、佐幕の熊本藩が動くことはなかった。憤りを感じた宮部は上京し、全国から集まってきた尊攘派志士たちと政治活動に奔走するようになる。しかし、挙兵のために集まってきた尊攘派志士たちの高揚とはうらはらに、久光公の真意は公武合体にあったため、不穏な動きを察知した久光公は粛清を命じ、寺田屋の変で粛清され、京都での挙兵は失敗に終わる。
 文久3年(1863年)、8月18日の政変で長州藩が京を追放され、警備にあたっていた熊本藩士たちも解散となるが、佐幕の熊本藩に戻る気にもなれず、宮部ら尊攘派志士たちは脱藩、行動を共にするべく長州藩へ入ることになる。翌年には再び上京し、潜伏しつつ尊皇攘夷の活動に奔走する。
 元治元年(1864年)6月4日、京都池田屋で会合中だった宮部たち尊攘派志士たちは、新撰組の知るところとなり襲撃をうける。世に言う池田屋事件が起こり、奮戦もむなしく、宮部は自刃することになる。
享年45歳。
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