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●近藤 勇【こんどう いさみ】
◎京都の守護神。新撰組局長

近藤 勇
 天保5年(1834年)10月9日、武蔵国多摩郡上石原村(東京都調布市)に農家・宮川久次郎の三男として生まれた。幼名:勝太

 15歳のとき、父の留守中強盗が押し入ったことがあった。兄が日頃の剣術の腕を試さんと飛びだそうとしたとき、勝太はこう言って止めた。
「賊は、入り込んだ直後は気が立っていて危険です。立ち去るときの気の緩みに乗じ、その隙をつきましょう」
 そして、賊が盗んだものをまとめ逃げ出そうとしたとき、勝太は兄と共に飛び出した。不意を付かれ慌てた賊は、盗品を投げ捨てて逃げていったという。それを深追いしようとした兄に、勝太はこう言った。
  「窮鼠猫を噛むと言います。盗られたものは無事に戻ったわけですし、もう放っておきましょう」
この事件で近藤は評判となり、剣の師匠である天然理心流三代目近藤周斎にその人柄と腕を見込まれて、養子になる。以来、江戸小石川の道場「試衛館」にて剣を学び、文久元年(1861年)8月、26歳の時に天然理心流四代目を襲名、名実ともに理心流宗家を継いだ。
 自分の拳が入るほど口が大きく、いかつい顔ではあったが、笑うと両頬にエクボが出来て、いかにももの優しげであり、親しみやすい人物だったと言う。

 文久3年(1863年)2月、28歳の時に、土方歳三、沖田総司、山南敬助ら試衛館一門といっしょに「浪士組」に応募し上洛する。しかし京入りした途端、八郎が尊王攘夷の魁たらんと称え、浪士組は江戸へ戻ると言い出したため、八郎に意を表し、試衛館一門、芹沢一派らはそのまま京壬生に残ることとなる。一同は鵜殿鳩翁らの計らいもあって京都守護職で会津藩主・松平容保のお預かりとなり、ここに壬生浪士組が誕生した。同年、8月18日の政変でその存在を知らしめた彼らは、その日のうちに松平容保から市中見廻りの内命を受け、その通達の文書によって「新選組」の名が与えられる。近藤と芹沢 鴨が局長となった。
  同年文久3年9月、京で暴挙の限りを尽くしていた芹沢一派の粛清を決行、以降、近藤が唯一の局長として新選組を背負う。
 
 慶応3年(1867年)12月18日、二条城での軍議の帰り、馬に乗って伏見街道の墨染辺りへさしかかった時、高台寺党残党の篠原泰之進らに狙撃され、右肩に銃創を負うも一命はとりとめる。しかし、その直後起きた鳥羽、伏見の戦いには参戦できなかった。この戦いを期に、新撰組は散り散りとなる。
 江戸へ引き上げ療養後、鳥羽伏見を戦い抜いてきた土方はじめ、隊士達を率い甲陽鎮撫隊として甲府城の接収に向かうも勝沼で敗走、下総流山で新選組再編成を図るが敵方に囲まれ、新政府軍に投降した。

 慶応4年(1868年)4月25日、板橋において斬首。享年35歳。その首級は板橋宿外の一里塚に晒され、のち京の三条河原に梟首された。


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