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●ヘンリー・ヒュースケン
◎攘夷派に暗殺された外国人犠牲者

 ●ヘンリー・ヒュースケン【Henry Conrad Joannes Heusken】

 1832年1月20日、アムステルダム生まれのオランダ人。父は石鹸製造業者のヨハネス・フランシスクス・ヒュースケン、母はヨアンナ・スミット。

 ヒュースケンはアメリカに渡り帰化し、安政3年(1856年)に初代総領事・タウンゼント・ハリスに雇われて同行、来日する。主にハリスの秘書と通訳を務めた。
 
 万延元年(1861年)1月14日、ヒュースケンは、プロシア使節宿舎のあった芝赤羽接遇所(今の港区三田)から善福寺への帰途、芝薪河岸の中の橋付近に待ち伏せていた「虎尾の会」の一員に襲撃される。実行したのは薩摩藩士・伊牟田尚平・樋渡八兵衛・神田橋直助らであった。攘夷の魁にならんと決起したのであった。ヒュースケンは翌日死亡、享年28歳だった。

 幕府はヒュースケンの母に1万ドルの弔慰金を支払って事件を落着させるのだが、事態を重く見た幕府は、辻番所に外国人保護を訴える標識を立てたり、外国御用出役を新設するなど外国人警護に務めるようになる。八郎の虎尾の会も幕府に監視されるようになる。しかし、攘夷派による外国人、公使館への襲撃はおさまらず、東禅寺襲撃事件、坂下門外の変など、多くの襲撃が実行された。
 

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