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天保13年(1842年)6月1日、白河藩士沖田勝次郎の長男として生まれ、名は惣次郎。4歳のときに父・勝次郎が死去し、母とも死別したとされる。
9才の時に、近藤道場・試衛館に内弟子として預けられた。剣技は天才的で、10代のうちに免許皆伝に達し、文久元年(1861年)には塾頭になっている。幼少に両親を失った惣次郎は、姉のミツを慕い、育ったと言われる。塾頭になったこの頃から、総司と名乗るようになる。
文久3年(1863年)、八郎が提案した幕府の「浪士組」結成に、試衛館天然理心流一門の近藤、沖田、山南らと共に参加し上洛、しかし、京入りした。しかし、八郎の意に反し、試衛館一門、芹沢一派らはそのまま京壬生に残ることとなる。
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一同は鵜殿鳩翁らの計らいもあって京都守護職で会津藩主・松平容保のお預かりとなり、ここに壬生浪士組が誕生した。同年、8月18日の政変でその存在を知らしめた彼らは、その日のうちに松平容保から市中見廻りの内命を受け、その通達の文書によって「新選組」の名が与えられる。沖田は、重要なポストである新撰組の一番隊を任され、隊内で一、二を争うほど、数多くの浪士を斬っている。
その剣才に加え、長身で短気であったとされ、隊内でも恐れられえていた沖田であったが、沖田が大の子ども好きであったことは有名な話で、隊務の合間に近隣の子供たちとよく遊んでいたという。
沖田は、
近藤 勇を心から慕い、新選組の一番隊を率いて活躍したが、労咳(結核)を患い、
鳥羽・伏見の戦いにも参戦できなかった。
慶応3年(1867年)の終わり頃には病状が悪化し、新選組が江戸に引き上げた後は、一人隠れるようにして療養生活に入った。
慶応4年(1868年)5月30日、1ヶ月前の近藤の処刑を知らされぬまま、沖田は一人で静かにその生涯を終える。享年26歳。
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