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文化12年(1815年)但馬に生まれる。
初め出石藩にて井上静軒に学び、天保11年(1840年)に上京し山本亡羊に学ぶ。
天保14年(1843年)、京都の公卿・中山家に仕えていた諸大夫・田中綏長の養子となり、同家諸大夫を勤める。幼少時の明治天皇の養育も務めていたといわれる。勤皇の志が篤く、薩摩藩・長州藩の志士たちと交流が深く、河内介の家は京都における志士の集合場所でもあった。
攘夷を策して3度の遊説を行い、文久元年(1861年)には平野国臣、松村大成らと交誼を結ぶ。
翌年文久2年(1862年)、遊説中だった八郎が、中川大納言の攘夷確約を得るために田中を訪ねている。
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この時、
薩摩藩主・島津久光の上京に際し、挙兵決行を画策する。八郎は田中の紹介を得て、熊本・薩摩など、志士を集うべく九州遊説に向かう。しかし、久光に尊皇攘夷の志は無く、真意は公武合体にあったため、志士の暴挙粛清を図る。世に言う
「寺田屋の変」であるが、これにより、田中、八郎らの企ては失敗に終わる。八郎は運良く何を逃れたが、田中は企ての首謀格として薩摩藩預かりとなるも、薩摩護送途中の船中で息子・瑳磨介とともに斬殺される。遺体は無残にも海中に投げ込まれ、小豆島に流れ着いた遺体は地元の人々により手厚く葬られた。
享年48歳。息子・瑳磨介にいたっては18歳であった。
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