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●美玉三平【みたま さんぺい】
◎天誅組に呼応!生野の変に散る

美玉三平
 文政5年(1822年)、薩摩生まれ。薩摩藩士。本名:高橋祐次郎。
 
 兵学に達し、安政末年から京阪に出て国事に奔走した。その折、『虎尾の会』に名を連ね、八郎の攘夷論に強く感銘し、八郎と行動を共にするようになる。文久2年(1862年)春、「寺田屋の変」に連座して藩邸に囚われの身となるが、逃亡の末長州にたどりつき、長州藩士・河上弥市らと交わり、八郎暗殺後も尊皇攘夷の義兵を挙げ幕府を倒そうと東西に奔走した。
 周防国三田尻で平野国臣に会い、土佐藩士・吉村寅太郎らの「天誅組」大和挙兵に呼応して、平野国臣や但馬の庄屋クラスの豪農層が協力し、朝廷認可の農兵組織を作り上げる。
 文久3年(1863年)10月、七卿の一人沢宣嘉を首領に仰いで但馬生野に義兵を挙げた。約3000の農兵が生野代官所を占拠する。(生野の変)しかし、近隣の諸藩は鎮圧兵を出し、13日夜には反乱軍に鎮圧され解散、失敗に終わる。不幸にも農兵らは激怒し、敗れて中島太郎兵衛らと播磨木之谷に逃れ、同地で農兵に囲まれ、脱出することが出来ず銃弾を浴びて没した。文久3(1863年)10月14日、享年42歳。
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