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●河上彦斎【かわかみ げんさい】
◎小さな刺客。幕末4大人斬りの1人。

河上彦斎
 天保5年(1834年)、肥後国飽田郡熊本新馬借町(現熊本市新町)に、肥後藩士・小森家の次男として生まれる。  
 中村半次郎・田中新兵衛(薩摩藩)、岡田以蔵(土佐藩)とともに幕末4大人斬りの1人。身長5尺足らず(150cm程度)、痩せ型で、色白、一見女性を思わせるような容姿だったという。
 11歳で河上彦兵衛の養子となり、16歳で熊本城下の掃除坊主となる。藩校の時習館に通い、学問と剣の修行に励む。彦斎は剣道の試合には弱く、いつも負かされていたと言う。 この頃、宮部鼎蔵らに出会い、肥後勤皇党の中に入り、勤皇の志に目覚め始める。
 文久2年(1862年)、中山大納言諸大夫・田中河内介の紹介で八郎が肥後を訪問している。
 九州遊説中であった八郎は、中山大納言が攘夷に立つにあたり、肥後勤皇党の参加を説きに来たのだったが、最初、田中河内介の紹介とはいえ肥後勤皇党員は八郎を信用することが出来ずにいたのだったが、河上は強く八郎に共鳴賛同し、
「呼んでいただければ、私はいつでも馳せ参じます。」と言い信用を寄せてくれた河上を、八郎は高く評価している。
 八郎が薩摩藩主・島津久光を説得し、兵を率いて上京させることに成功すると、河上、宮部らは藩論を尊皇攘夷に導こうとしたのだが、佐幕の肥後藩が動くことはなかった。   しかし、挙兵のために集まってきた尊攘派志士たちの高揚とはうらはらに、久光公の真意は公武合体にあったため、不穏な動きを察知した久光公は粛清を命じ、寺田屋の変で粛清され、京都での挙兵は失敗に終わる。
 文久3年(1863年)、8月18日の政変で長州藩が京を追放され、警備にあたっていた熊本藩士たちも解散となるが、佐幕の熊本藩に戻る気にもなれず、宮部ら尊攘派志士たちとともに脱藩、行動を共にするべく長州藩へ入ることになる。
 元治元年(1864年)6月4日、新撰組が池田屋を襲撃した池田屋事件で宮部が討たれたことを知ると、河上はすぐに上京し、長州追放及び池田屋事件の黒幕であった佐久間象山を暗殺する。佐久間は長州・吉田松陰の師であったが、この時佐久間は公武合体論者であり、河上は暗殺することを決意する。
 河上は「人斬り彦斎」と呼ばれていたが、確実に分かっているのは佐久間象山だけで、あとは誰が斬られたかは分かっていない。
 佐久間暗殺の8日後、追い詰められた長州は決起し、「禁門の変」が起こる。しかし、圧倒的兵力の差で敗れ、河上は長州に逃げ去ることになるが、長州征伐の折、肥後藩が幕軍として長州と対峙したことに怒り、肥後藩首脳を説得するために熊本へ戻る。しかし、逆に脱藩犯として投獄されてしまう。1年の入獄の間、大政奉還がなされ、王政復古の大号令、鳥羽・伏見の戦いを経て、時代は明治へと移っていた。藩は慌てて河上ら勤皇志士を出獄させ、藩庁の役人に取り立てた。
 維新後、外交係に任命され河上は、名を高田源兵衛と改める。外交係として各地を回っているうちに、新政府に登用されたかつての同朋・志士たちは攘夷を捨て、開国政策の方向に進んでいることに愕然とし、新政府に反抗し、あくまでも攘夷を掲げる河上だったが、帰国命令がだされ、その後は「有終館」という兵学校を設立し、後進を育てることに尽力する。
 しかし、新政府の方針に従おうとせず危険視されていた河上は、ありもしない容疑で河上を捕えられ、明治4年12月に斬首される。

その最後まで、尊皇攘夷の志を一貫した、正真正銘の志士だった。

     −辞世の歌−
    君が為め 死ぬる骸に 草むさば 赤き心の 花や咲くらん


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