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天保2年(1831年)、仁孝天皇の第4王子として生まれる。16歳のときに、父・仁孝天皇の崩御のため121代天皇に即位する。この頃の情勢は、西洋諸国の艦船が頻繁に出没し、嘉永6年(1853年)、米国ペリーの来航を期に、幕府としては諸大名・朝廷の協力を得なければ国政が立ち行かない状態にあった。
孝明天皇は夷人嫌いで知られ、幕府に日米修好通商条約の勅許を求められるも却下される。これにより井伊直弼は無勅許条約締結という強行に踏み切ることになるが、孝明天皇はこれに激怒し、退位を考える。これに14代将軍の継承問題も加わり、幕府と朝廷の関係に亀裂が生じ始める。桜田門外の変での井伊直弼暗殺後、公武合体を進めるべく、「攘夷のためならば」という岩倉具視の再三の進言に、妹の和宮と将軍家茂の婚姻を許可することとなる。
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皇女の江戸下向は前例の無いことであり、既に婚約者の決まっていた和宮自身、強い抵抗を示したのだが、妹のために退位もやむなしと苦悩する兄の姿に、和宮はついに承諾することとなる。これにより、朝廷が幕府の優位に立つことになる。
また、孝明天皇は、公家の学問所である
学習院を創設したが、三条実美など過激派により、倒幕をもくろむ尊攘派志士たちの陰謀の巣となっていった。
文久3年(1863年)2月、八郎率いる「浪士組」が京都に上り、朝廷から攘夷決行の勅諚を賜る。しかし、孝明天皇の考えはあくまでも尊皇攘夷であり倒幕ではなかった。孝明天皇は学習院にはびこる過激派を排除することを決意し、同年8月18日、薩摩・会津藩によりこれら過激派公卿及び長州藩士は追放される。
8月18日の政変である。この時、会津藩おかかえだった、
芹沢 鴨・近藤 勇ら率いる
壬生浪士組(八郎の意に反し京都に残った浪士組)が警護にあたり、その存在をアピールし
「新撰組」の誕生となる。
天皇としては、攘夷の考えはあっても、仮にも妹・和宮の夫である家茂を身近に感じていたこともあり、過激な倒幕までの考えは無かったのである。これにより、再び公武合体派が勢力を取り戻すのだが、開港をめぐる安政条約の勅許に追い込まれると、再び倒幕気運が高まってくる。
慶応2年(1866年)、疱瘡にかかり36歳で急逝する。これを期に倒幕公卿が台頭しはじめ、孝明天皇の子・のちの明治天皇を迎えて、朝廷は倒幕に加担していくこととなる。
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