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天保9年(1838年)、代々鷹匠組頭をつとめる家に生まれる。名前の万(萬)は「よろず」とも「つもる」さらに「むつみ」とも読む。
幕臣でありながら熱烈な尊王論者で、井伊直弼の「安政の大獄」で処刑された頼三樹三郎の片腕を小塚原の刑場から盗み出し、神棚に供えて祀ったというエピソードがある。
松岡は「学問もあり剣術にも長じ、骨格魁偉、膂力衆に勝れ」と言われ、その剣はかなりの腕前だった。
安政4年(1857年)、この年、同胞・山岡鉄太郎を介し、八郎と出会う。山岡同様、幕臣でありながら尊皇攘夷論派であったため、八郎に強い共感を覚え、山岡と同様、八郎の朋友となる。
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万延元年(1860年)、八郎が尊皇攘夷派の集う『虎尾の会』を結成すると、幕臣でありながら、同胞の山岡とともにその名を連ねる。
文久3年(1863年)、八郎の発案による『浪士組』が幕府の受け入れられ、松平主税介忠敬が浪人取扱役となり、山岡鉄太郎、久保田治部右衛門と共にその補佐役となって浪士組浪士の募集を開始した。
そして浪士組の取締役となり上京、八郎と行動を共にする。
江戸に戻り、八郎暗殺事件の直前、窪田治部右衛門とともに剣術の腕前を見込まれ浪士取締役に抜擢されている。
維新後、徳川家が駿府藩(現在の静岡県)70万石として存続することになり、再び駿府城下が徳川駿府藩の管轄となり、慶応4年(1868年)、徳川慶喜が駿府の宝台院に入ったおり、松岡は新番組(旧精鋭隊)の隊長として隊士50人余を率いて宝台院まで警衛した。その後、中条金之助らと牧之原開墾に力を尽し、さらに、新門辰五郎の協力を得て、磐田郡幸浦湊浜(福田町)の製塩事業もすすめた。地元農民に「松岡さま」と感謝され、磐田市の地主神社と岡部町の松岡神社の二社にまつられている。
清水の次郎長とのこんなエピソードがある。駿府三保沖で咸臨丸が官軍に襲われ多くの死者がでたが、官軍は死体を葬るなど触れることを禁じたが、清水次郎長はこれに従わず死体を葬った。これをとがめ次郎長を取り調べたのが、松岡だった。松岡は次郎長の「死ねば敵も味方ものない」と言う言葉に、死体は潮に流されたことにしてとがめなかったという。
明治24年3月17日没、享年54歳。
東京日暮里、全生庵に眠る。
(全生庵には、虎尾の会同志・山岡鉄太郎、石坂周造、村上俊五郎の墓もある)
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