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●北有馬太郎【きたありま たろう】
◎志半ばで獄中に死す

北有馬太郎
 肥前島原藩士。

 早くから尊皇攘夷に心を寄せ、来るべき日に備えて、妻子と離別、埼玉の川越在奥富村で私塾を開いていた。北有馬太郎」という名は仮名で、本名は中村貞太郎と言った。(このサイトでは「北有馬太郎」で統一表示します。)
 北有馬はもともと肥前島原の人間で、安井息軒門に学んだ秀才だった。妻は安井息軒の娘・須磨子。北有馬は、自分が国事に奔走することで、義父であり師である息軒に迷惑を及ぼすことを恐れ、妻子と離別し、中村貞太郎という本名も捨てている。
 北有馬は同じ奥富村で開業医をしていた西川練造とともに、尊皇攘夷の志の元、日々奔走していた。
 万延2年(1861年)1月、八郎により結成された「虎尾の会」の一員となる。その後、尊攘活動を過激化させ、「ヒュースケン暗殺」に端を発し、八郎をはじめ虎尾の会の同志が幕府に目をつけられることとなり、八郎の町人無礼斬りの際、連座し投獄され、獄中で病死している。

 活動家で交友関係が広く、八郎が逃亡中の遊説の際、真木和泉ら大物尊攘派との接触に成功したのは、北有馬の人脈の賜でもあった。

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