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●安積五郎【あさか ごろう】
◎志は八郎とともに

安積五郎
 文政11年(1828年)、江戸に生まれる。
 幼少の頃、痘瘡を病み右目を失明、11歳のとき商家に奉公したが、間もなく家に帰って売卜を学び、のち剣術をも志す。15歳の時、幕府医官塩田順庵に従って勉学、同時に北辰一刀流・千葉周作について剣術を学び、ついに売卜業の家業を捨てて、江畑五郎なるものと共に下谷御徒町に漢学塾を開いた。
 
 安政6年(1859年)、千葉道場の同門・八郎と出会い、八郎の尊王攘夷論に強い感銘を受け志を八郎と同じくする。安積は八郎の故郷・清川村に一緒に同行するなど、八郎とともに行動することが多かった。
 商家出の安積は境遇も似ており、八郎にとって安積は弟のような存在だったのかもしれない。
 安積は当然のように虎尾の会の一員となり尊攘を唱えていたが、同志・伊牟田尚平・樋渡八兵衛神田橋直助らによるヒュースケン殺害事件後、清河塾に対する監視が厳しくなり、八郎たちの横浜焼き討ち計画等、幕吏の探知するところとなる。幕府の罠で八郎が町人を無礼斬りした後、八郎とともに逃走をはかるが、同志たちがことごとく捕らえられ、捜索厳重を極めた。八郎と行動をともにし、長い逃亡生活が始まるのだが、逆に逃亡期間に、さらに尊皇攘夷の同志を集めるべく各地で遊説を行うことになる。

 八郎暗殺後、安積は志半ばで散った八郎の意志を受け継ぎつつ、「天誅組」の一員となる。

 文久3年(1863年)8月、中吉村寅太郎・山忠光が大和で義兵を挙げるや(天誅組の変)、同志と共に義挙に参加し、旗奉行として十津川・坂本に戦い、八郎の幼少の師・藤本鉄石らとしばしば奇策をもって敵を破ったが、9月25日、丹波で津藩兵に捕えられる。天誅組には「虎尾の会」の同志が数多く参加していたが、この闘いで多くが志半ばでこの世を去る。
 
 翌年元治元年(1864年)7月、京都の六角の獄中で処刑される。享年37歳。
 

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