埼玉川越奥富村の生まれ。
代々医師の家系であり、西川も医師であった。30歳を過ぎてから江戸に出て、佐藤一斎、尾藤ニ竹に学び、剣を井関五郎に学び剣術神道無念流の達人でもあった。また、鈴木彦之進に長沼流兵学も学んでいる。
万延2年(1861年)1月、備前島原藩士ながら、ともに奥富村を拠点に尊皇攘夷に奔走していた、北有馬太郎とともに「虎尾の会」の一員となる。この時40歳を超えていた。
その後、尊攘活動を過激化させ、「ヒュースケン暗殺」に端を発し、八郎をはじめ虎尾の会の同志が幕府に目をつけられることとなり、八郎の町人無礼斬りの際、連座し投獄され、獄中で病死している。
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