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●土方歳三【ひじかた としぞう】
◎新撰組の誇りを最後まで守り抜いた。

土方歳三
 天保6年(1835年)、武州多摩郡石田村(東京都日野市石田)生まれ。

 土方は5人兄弟の末っ子として生まれ、両親と早く死別し、20歳をすぎた頃より武術(天然理心流)を志し、家伝の骨折・打撲の秘伝薬「石田散薬」の行商をしながら、薬箱の上に剣術道具をくくりつけて、行く先々で道場を見つけると他流試合を申し込み剣の腕を磨いていた。近藤 勇沖田総司らと同門で、特に年の近い近藤とは幼馴染で親友、兄弟のような関係だった。
 文久3年(1863年)、八郎が提案した幕府の「浪士組」結成時に、試衛館天然理心流一門の近藤、沖田、山南らと共に参加し上洛、しかし、八郎に意を表し、試衛館一門、芹沢一派らはそのまま京壬生に残ることとなる。
  一同は、鵜殿鳩翁らの計らいもあって京都守護職で会津藩主・松平容保のお預かりとなり、ここに壬生浪士組が誕生した。
 同年、8月18日の政変でその存在を知らしめた彼らは、その日のうちに松平容保から市中見廻りの内命を受け、その通達の文書によって「新選組」の名が与えられる。土方は副長として局長・近藤を助け、新選組の組織母体を固めていく。鉄の戒律「局中法度」をつくり内部粛清を行い、外では京都守護職会津中将お預りとして不逞浪士の取り調べ、市中見廻りを行い、西国浪士たちを震撼せしめた。
 しかし、激動する時の流れは幕軍に利せず、大政奉還、王政復古の大号令へと続く。

 慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦に敗れ、近藤勇が流山で捕らえられ板橋で斬首された後、新選組の生き残りを率いた土方歳三は、北関東、会津と転戦し仙台にて榎本武揚の艦隊に合流し新天地に希望を求めて蝦夷地函館に上陸する。
 
 明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、その乱戦の中、覚悟を決めた土方は鬼神のような戦いをしかけるも、敵の銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたと言う。享年35歳。
 
 心中一点の翳りなく誠に生き、義に殉じたその壮烈な死。死を覚悟していた土方の辞世の歌である。

     たとひ身は  蝦夷の島根に朽ちるとも 魂は東の君やまもらん


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