埼玉川越勝呂村の出身。
御家人株を買い幕臣となった人物で、咸臨丸で剣術方として渡米した経歴を持つ。
清河塾立ち上げ時からの八郎の内弟子。同朋の西川練造の世話で、清河塾に住込みながら、伊庭道場や講武所にも通っていた。実直で寡黙な笠井は八郎からも信頼され、八郎不在中の塾を任されていた。笠井は八郎を畏敬し、尊皇攘夷に傾倒していく。
万延2年(1861年)1月、「虎尾の会」の一員となる。その後、尊攘活動を過激化させ、「ヒュースケン暗殺」に端を発し、八郎をはじめ虎尾の会の同志が幕府に目をつけられることとなり、八郎の町人無礼斬りの際、連座し投獄され、獄中で病死している。
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