八郎ホーム 回天ブログ 清河八郎記念館 清河八郎 年譜 清河八郎関係人物録
清河八郎人物図鑑 回天の魁士 清河八郎物語 清河八郎リンク

NAVI庄内バナー


●原田左之助【はらだ さのすけ】
◎美男子にして気性が荒い 新撰組の暴れ者

原田佐之助
 天保11年(1840年)、伊予松山藩の足軽原田長次の嫡男として生まれる。
 安政2年頃に江戸へ出て、三田の松山藩邸で中間となる。その後、出奔し江戸に出て試衛館の食客になり、近藤と共に浪士隊に参加する。原田は美男子にしてとても気性の荒い人物であったとされる。
 文久3年(1863年)、八郎が提案した幕府の浪士組結成に、試衛館天然理心流一門の近藤、土方、沖田らと共に参加し上洛、しかし、京入りした途端、八郎が尊王攘夷の魁たらんと称え、浪士組は江戸へ戻ると言い出したため、八郎に意を表し、一門、芹沢一派らはそのまま京壬生に残ることとなる。一同は鵜殿鳩翁らの計らいもあって京都守護職で会津藩主・松平容保のお預かりとなり、ここに壬生浪士組が誕生した。
  同年、8月18日の政変でその存在を知らしめた彼らは、その日のうちに松平容保から市中見廻りの内命を受け、その通達の文書によって「新選組」の名が与えられる。新選組副長、総長を歴任する。
 
 慶応3年(1867年)11月15日坂本竜馬・中岡慎太郎暗殺事件で、現場に残された2つの遺留品のうち、蝋色の刀の鞘は原田左之助のものであるという伊東甲子太郎の証言と、『こなくそ!』というかけ声が伊予あたりの方言ではないかという中岡慎太郎の証言から、暗殺者は原田左之助ら新撰組ではないかと疑われた。また現場に残されたもう一つの遺留品、瓢箪(ひょうたん)に亭の字の入った焼印が押された下駄の片方は、新撰組がよく利用する先斗町の瓢亭という料理屋のものであるとされたことも新撰組犯人説を強調した。しかしこれは後に祇園の中村屋のものと判明している。
 現在も真相は不明であるが、八郎を暗殺した京都見廻組・佐々木只三郎説が有力である。鳥羽伏見の戦いのとき、甲陽鎮撫隊としての出陣・敗走後、永倉新八、矢内賢之助らと共に新撰組を脱退し、芳賀宜道と靖兵隊を結成。 その後山崎宿で袂を分かち、江戸に戻る。江戸で、彰義隊に参加し官軍と戦い受傷。2日後の慶応4年(1868年)5月17日死亡。享年29歳。
 一説では、満州国に逃れて、馬賊として暴れ、満州事変の際に日本軍が進出したときに、兵隊に原田左之助であると語ったという話もある。
 

   八郎ホームへ  回天ブログへ    人物目次ページへこのページのトップへ


各ページに掲載の写真・音声・CG及び記事等の無断転機を禁じます。
Copyright(c)2006 回天の魁士 清河八郎 All rights reserved.      | プライバシーポリシー