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文政11年(1828年)、筑前福岡城下行下町に、福岡藩足軽・平野吉郎右衛門の次男として生まれる。
安政5年(1856年)に脱藩し、京都に出て、薩摩藩士らと交流を深め、文久元年(1861年)には、京都の公卿・中山家諸大夫・田中河内介と交誼を結ぶ。
文久2年(1862年)、平野は八郎と出会う。八郎が田中河内介の紹介により肥後藩士・松村大成を訪ねた時のことだった。八郎と意気投合し、先薩摩藩主・島津久光の上京の説得の意志を固め、八郎と同行していた薩摩藩士・伊牟田尚平とともに薩摩に向かう。九州各地も遊説し、薩筑連合をもくろむ。脱藩の罪で追われる身となりながらも西国の尊攘派の結集をはかるために奔走する。
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しかし、八郎らとともにもくろんだ京都挙兵は、
「寺田屋の変」で失敗、田中河内介(後に斬殺)、
真木和泉らとともに捕らえ、平野は福岡で投獄されることになる。
翌年出獄して、学習院出仕となるも、8月18日の政変で京都を追われ、但馬生野地方で沢宣嘉を擁する挙兵に参加し、生野代官所を占拠する。
「生野の変」である。しかし近隣諸藩の攻撃をうけ、他方動員した農民の反乱もうけて破れ、京都の投獄される。
文久4年(1864年)、禁門の変に際し、獄中で斬殺。
享年37歳。
平野は奇抜な格好を好み、髪を総髪、刀は一昔前の太刀作りの刀を佩き、烏帽子・直垂を着て町中を歩くことがあったと伝えられる。また、平野は文人、国学者でもあり、和歌・笛も嗜む風流人でもあった。
幕末に活躍した数多くの志士達の中でも、平野は一匹狼で我が身を燃やし半生を国事に奔走した、豪傑であったと言える。
下記の歌は、そんな平野の性格をあらわしている。