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天保6年(1835)11月15日、高知城下に土佐藩郷士坂本八平の次男として生れる。
14歳のとき、高知城下築屋敷に住む小栗流剣術指南日根野弁冶に入門し、嘉永6年3月にその目録を与えられる。同年江戸に出て京橋桶町の北辰一刀流千葉貞吉(千葉周作の弟)に剣を学ぶ。
翌安政元年6月に帰国するが、安政6年(1859年)8月、再び江戸に出て剣の修業を続け、正月には北辰一刀流免許を受けた。北辰一刀流・同門の先輩に当たる八郎とは面識があり、翌年八郎により結成される「虎尾の会」に、龍馬は名を連ねていたとされる。当時、江戸で剣の御前試合が行われ、江戸の三大道場といわれた、北辰一刀流の玄武館、神道無念流の練兵館、鏡新明智流の士学館も参加し、それぞれの道場から代表剣士が選出される。
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北辰一刀流の千葉道場からは龍馬が選抜され、見事優勝している。龍馬は剣士としてその名を知られることになる。
文久元年(1861年)、時勢を感じて同郷の朋友・
武市半平太(瑞山)が筆頭の
土佐勤皇党に加盟、文久2年(1862年) 長州萩に久坂玄端を訪れ、帰藩後土佐藩論の国論にあきたらず3月24日脱藩する。在郷当時絵師
河田小龍について土佐の漁師・
中浜万次郎(ジョン万次郎)のアメリカ漂流談と海洋発展論を聞き、これに共鳴するところがあり、龍馬の世界観を広げた。
脱藩後江戸に出て
勝海舟を訪れる。最初は、勝を切るつもりで出向いた龍馬であったが、勝のその新世界観に感激して、これまで自分が信じてきた尊王攘夷論を捨て去り、勝門下生として勝を師と仰ぐようになる。勝との運命の出会いだった。龍馬は勝のもと航海術を修行し、勝の絶大な信頼を受けて神戸海軍操練所の開設に尽力する。
また、勝を介し、さまざまな人物と面識をもつことになる。
松平春獄、
大久保一翁、
横井小楠らの影響をうけて日本改造の基案を胸底に描きはじめる。
しかし、幕府当局の保守勢力は勝海舟の進歩性・積極性を喜ばず、元治元年龍馬は勝の失脚を機会に薩摩藩の保護を受けることになり、この時、
西郷隆盛(吉之助)と懇意になる。
慶応元年、龍馬は同志を率いて長崎に
亀山社中(のち海援隊)を設立する。これを媒体として慶応2年(1866年)正月、敵対関係にあった薩摩・長州両藩の同盟を成立させる。薩摩・
西郷隆盛、長州・
桂小五郎(後の木戸孝允)の仲介に入り、世に言う
「薩長同盟」が成立する。これにより、
8月18日の政変に続く幕府の長州再征を断念させた。薩長同盟成立直後、龍馬は伏見寺田屋で幕吏に襲われ重傷を負うも、危地を脱する。
慶応3年(1867年)10月14日、同郷の上士・
藤象二郎を説き、前土佐藩主・
山内容堂を動かして将軍慶喜の
大政奉還を実現させることになる。このときに、後藤と共に長崎から海路上京する船中でまとめた大政奉還・公議政治など八ヶ条の構想は世に
「船中八策」と称せられて有名である。しかし、倒幕の血気盛んな薩摩・長州は、徳川家を救うことになる大政奉還に憤りを隠せず、これを期に、龍馬と薩長の関係に確執が生じ始める。
大政奉還後の慶応3年(1867年)11月15日、くしくも龍馬32歳の誕生日であったが、京都の下宿近江屋で同郷の朋友・
中岡慎太郎とともに暗殺される。龍馬は「明治」という日本の新しい夜明け見ることなく短い生涯を終えることになる。
龍馬暗殺の真犯人については謎のままであるが、様々な説が唱えられている。有力であるのが、八郎を暗殺した
佐々木只三郎という説である。当時佐々木は
京都見回組を統括していた。
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