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●坂本龍馬も浪士組?
坂本龍馬肖像
 文久2年(1862年)に清河八郎が提案した浪士組。この浪士組に坂本龍馬が参加する可能性があったことはあまり知られていない。他に、八郎と親交の深かった、平野国臣、真木和泉、宮部鼎蔵、藤本鉄石、久坂玄瑞など、当時の錚々たる浪士たちが、幕府が取り立てるべき浪士としてリストアップされていた。
 事実、当時の幕府の目付で、最後の箱館奉行を務めた「杉浦梅潭」が記した「浪士一件」という史料(国文学研究資料館所蔵)の中で、浪士組に参加すべきメンバーとして坂本龍馬や久坂玄瑞をリストアップされている。
 杉浦が記した「浪士一件」の最初(文久二年の記事)に記されているのが、清河八郎、池田徳太郎、石坂宗順(周造)、内藤久七郎、堀江芳之助、杉浦直三郎、■塚行蔵、磯新蔵、大久保枩之助、坂本龍馬、松浦竹四郎、村上俊五郎、全部で12人。これは浪士取立計画を推進した幕臣・松平主税助が杉浦に提出した浪士名簿である。
その後、文久二年十二月二十日の記事では、幕府が取り立てるべき浪士の筆頭として、清河八郎の名前が挙げられ、さらに文久三年の最初の記事には、幕府が取り立てるべき浪士たちとして、坂本龍馬・平野国臣・真木和泉・間崎哲馬・宮部鼎蔵・西郷隆盛・久坂玄瑞・藤本鉄石など、八郎に関係の深い人物の名前リストアップされている。これも、リストアップは松平主税助であり、八郎との協議があったものと推測される。
 坂本龍馬の名が、浪士取立計画当初から挙げられていることから、八郎と交流の深かった土佐藩士の間崎哲馬は龍馬とも親交があり、間崎から浪士組の計画についての話があったと考えられる。
 文久三年正月二十二日には、浪士取立計画を採用した政事総裁職の松平春嶽、杉浦梅潭、勝海舟(当時、春嶽を批判していた)、坂本龍馬の四人が同じ船に乗り合わせ、浪士取立計画について議論をしている。杉浦梅潭が記した「経年記略」(『杉浦梅潭目付日記』に所収)に、このとき坂本龍馬との会話も記されているが、会話の内容は不明。浪士組についてどんな議論がなされたのか?その会話の記録は残されていない。

【参考】
◎ 『最後の箱館奉行の日記』
    (新潮選書:1995年)
◎ 『杉浦梅潭目付日記』
   (みずうみ書房:1991年)

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清河八郎人物図鑑
回天の浪士組       浪士組上洛名簿はこちら


◎悲劇の「寺田屋の変」

 町人無礼斬りにより幕府のお尋ね者となり、逃亡生活を余儀なくされた八郎だったが、逆に全国各地に渡り尊皇攘夷の志士としての活動を始める。全国の志士に檄を飛ばし、薩摩藩士をはじめ全国の志士が続々と京都に参集し、攘夷のための挙兵を現実のものにしようとしていた。
 しかし、久光公の考えは「公武合体」であり、文久2年(1863年)4月23日、薩摩藩・島津久光公の「挙兵」を信じていた志士たちが、同じ薩摩藩の仲間たちと斬り合いになり、多くの有能な志士が死んだ。
幕末維新史の悲劇「寺田屋の変」である。

 八郎の目的は振り出しに戻ったが、「寺田屋の変」の直後、孝明天皇(明治天皇の父)に『回天封事』と題した建白書を送る。その末尾に「我々は天下の義人を集め、数ヵ月以内に必ず大挙します」と誓っている。
寺田屋
■現在も残る京都・寺田屋
 「寺田屋の変」後、八郎は江戸に戻り、自分のために牢獄につながれた妻・お蓮や同志たちの安否をたずね、妻と同志たちを救うべく、ひとつの案を実行する。

◎浪士組の編成

 八郎の画策した京都挙兵は「寺田屋の変」で失敗に終わる。再起を考える八郎は、5月に藤本鉄石、安積五郎とともに大坂の薩摩藩邸を訪ねるが、良い反応は得られなかった。(清河八郎「潜中紀略」より)。関西挙兵は無理だと判断した八郎は東下し、水戸に潜伏することになる。
 文久2年(1863年)11月、八郎は、同志・山岡鉄太郎を介し、幕府政事総裁・松平春嶽に『急務三策』という建白書を提出する。内容は@攘夷を断行する、A浪士組参加者は今まで犯した罪を免除される(大赦)、B文武に秀でたものを重用する、という内容のものだった。
 当時江戸では不逞浪士の横行が酷い状態にあり、「毒を制するに毒をもってす」ということもあり、松平春嶽は、不逞浪士の裏を良く知っている浪士団体を使うのも妙策であり、八郎の策は浪士懐柔統制にも有効であった。そして朝廷からの内命、土佐藩主・山内容堂の絶賛(これは八郎と親交の深かった同胞・間崎哲馬が土佐藩同志を介し、容堂公に働きかけたと言われる。)もあり、この「急務三策」は早速取り上げられることになったのだった。また、これにより、獄中の志士・同志(石坂周造、池田徳太郎、弟熊三郎等)たちの大赦が出されたが、妻・お蓮は獄中はしかにかかり、庄内藩邸に移されるも帰らぬ人となる。(庄内藩による毒殺とも言われている)

 文久2年(1862年)12月3日、浪士組取扱には、旗本でも大名でもないが、徳川一門でありながら厄介者扱いされていた、松平主税介(のちに上総介と改名)を挙用し、添役として鵜殿鳩翁(うどのきゅうおう)を任命した。
 急務三策により、八郎の同志たちは大赦が出されたが、八郎は安政の大獄に連座するような国事犯ではなく、幕府下っ端の岡引類を無礼討ちした「殺人犯」である。八郎に適用されるものではなかった。しかし、松平主税介が江戸町奉行に掛け合い、八郎は晴れて無罪放免となり、かつ水戸藩内に潜伏していた八郎を呼び出して、浪士組募集係の責務を与えた。

 御家来にて出奔致し候清河八郎召捕方の儀、先だって相達し置き候ところ、右者この上召捕候には及ばず候あいだ、なおまた此の段申達し候事。
 出羽庄内 清河八郎
 右の者有名の英士にて文武兼備尽忠報国の志厚く候間、お触出し御趣意もこれあり、私方へ引取置き他日の御用に相立て申したく此の段伺い奉り候
                                       松平主税介より申立


 こうして、同年12月10日、八郎は水戸から江戸に戻り、山岡鉄太郎邸に入り居候となる。
 同年12月19日、幕府から正式に浪士組募集の大令が松平主税介のもとに出される。

 浪士組は、文久3年(1863年)2月、将軍家茂上洛に合わせ、将軍警護のために作られたというのが一般的見解である。幕府としてみれば「将軍家茂上洛に合わせた将軍警護のための浪士組」だったであろう。また、幕府が江戸にいる過激な尊皇攘夷浪士たちを体よく追い出す策だったと解釈する説もある。
 しかし、八郎の意図は将軍警護ではなかった。そこが策士・八郎のしたたかさなのだが、実際の浪士募集の達文をみると、その目的は「尽忠報国」の有志による「一方の御固め」なのである。この時代、「国」という言葉は、藩(幕臣にとっては徳川家)と、日本国(「皇国」)の二通りの意味で使われ、八郎の言う浪士組は、明らかに日本国(「皇国」)の方である。また、「一方のお固め」とは日本全体の守衛を意味し、外国の脅威からの守衛、つまり「攘夷」を意味する。浪士組は「尊攘の大義」の実現を目的にするための浪士集団であり、腕に覚えがある者であれば犯罪者であろうとも農民であろうとも、身分を問わず、年齢を問わず参加できる、当時として画期的な組織であった。
 幕府は将軍上洛に際して浪士組を結成し、上洛させて京の治安を保たしめようとした。その浪士組を幕府に一任され支配したのが八郎だった。最初の浪士取締役には、松平主税之介、中条金之助、窪田治部右衛門、山岡鉄太郎などが任じられる。募集当初50名という見込みで、維持費は300万両という制限を、幕府老中・板倉勝静に言い渡されていた。しかし八郎は予算の事など眼中に無く、集めた浪士は300余名。八郎が予定人員の数倍の浪士を集めてしまったため、金策の目途も立たず、どうにも扱い切れないと呆れ返った松平主税之介は、浪士取扱を辞任。後任には鵜殿鳩翁が就き、浪士取締には八郎の同胞・山岡鉄太郎、松岡 万の両名が任命された。
 最終的に集まった浪士は234人(脱藩者、剣士、農民、儒者など)、幕府より一人当たり10両(約30万円)が支給された。この浪士組の中に、後に新選組となる近藤勇、芹沢 鴨、山南敬助、土方歳三、沖田総司、永倉新八、原田左之介、藤堂平助ら試衛館道場の面々も加わっていた。浪士組の編成は10人を一隊とし、隊長(小頭)を置くき、三隊を一組とし、それに道中世話役が一人付き添う。
 文久3年(1863年)2月9日、江戸小石川伝通院に浪士組集合、京に向けて江戸を出発している。素性の知れないものが集まった浪士組だったため、幕府の命により表街道(東海道)を避け、中山道の木曽路を通り京へ向かう。しかしこの浪士組の名簿の中には八郎の名前は無く、「浪士組上京有志姓名録」には「山岡鉄太郎附属」となっている。これは、幕閣が、幕府募集の浪士組のトップに、一介の浪士である八郎を置くことを良しとせず、八郎はそれならば、と、浪士組名簿の欄外に署名したと言われる。「山岡鉄太郎附属」とは、山岡が八郎を気遣い記したものではないだろうか。八郎にとって、名簿上の立場などどうでもいいことであり、山岡を表面に押し立てて、自分は山岡の相談役でも良かったのである。しかし、この点が、上洛後に近藤 勇、芹沢 鴨に追求され、影の策士的な八郎を「卑劣漢」とののしり決別する要因となる。ここに八郎の「暗い策士」のイメージが付きまとっているとも言える。八郎の真実は、あくまでも攘夷であり「尽忠報国」なのである。

              浪士組上洛名簿はこちら!

■浪士組旅程
9日/本庄宿〜11日/松井田宿〜13日/長久保宿〜14日/下諏訪宿〜15日/奈良井宿
17日/中津川宿〜19日/加納宿〜21日/武佐宿〜22日/大津宿〜23日/京都壬生村到着


◎回天のとき

 文久3年(1863年)2月23日、浪士組一向が、京都に到着し壬生村へ入り、八郎は浪士組を新徳寺の本堂へ集め、みずから正座についた。
新徳寺
■京都・新徳寺
「われらは尽忠報国の赤誠より結成された一団である。すなわち本分は尊皇攘夷にある。天皇のため、日本のために命を捨てて立ち上がるのだ!われらの真の目的は朝廷を擁立し、外国勢力を打ち払うことである。尊皇攘夷の魁となるが本分なり!改めて申すまでも無く覚悟のことと存ずるが、この儀について速やかに朝廷に奉り、即刻、御所へこの旨を上書いたす。諸君もご異存はあるまいな。」と尊皇攘夷論を演説した。
 突然の話に浪士たちは困惑した。直接朝廷の命令をもらおうというのである。



上書の内容は次のとおりだった。

謹んで上言奉り候。今般私ども上京仕り候儀は大樹御上洛の上において、皇命を尊戴し夷狄を攘斥するの大義雄断遊ばされ候事に、周旋の族は申すに及ばず、尽忠報国の志これある者は、忌諱にかかわらず広く天下にお募り、その才力を御任用、尊攘の道御主張遊ばされ候ため、まずもって私どももお召に相成り、その周旋のあるべきとの義につき、夷変以来累年国事に身命をなげうち候者どもの旨意も全く征夷大将軍の御職掌御主張相成り、尊攘の道相達すべしと赤心に御座候えども、右のごとく言路洞開、人才御任用遊ばされ候わば尽忠報国の筋もこれに従い徹底すべしと存じ奉り、すなわちそのお召に応じまかり出で候。しかる上は大将軍家におかれても断然攘夷の大命御尊戴、朝廷を補佐奉る者はもちろんの事、万一因循姑息、皇武離隔の姿にも相成り候わば私ども儀幾重にも挽回の周旋仕るべく、なおその上とも御取用いもこれなくば是非に及ばず、銘々靖献の心得に御座候。その節は寒微の私ども誠にもって恐入り候えども、もとより尽忠報国身命をなげうち勤王仕り候儀につき、何とぞ朝廷におかせられても御垂憐いず方なりと尊攘の赤心相遂げ候ようおさし向けなられ候わば有難き仕合せに存じ奉り候。右につき幕府お召には相応じ候えども、禄位などはさらに相承け申さず、ただただ尊攘の大義のみ相期し奉り候間、万一皇命を妨げ私意を企て候輩これあらば、たとい有司の人人たりとも、いささかも用捨なく刺責仕りたき一統の決心に御座候間、威厳を顧みず言上仕り候間、お聞置きなし下され、微心徹底仕り候よう天地に誓って懇願奉り候。
  
      文久三年二月二十四日     
                                         誠惶頓首再拝謹白
                                            浪士一同連判


 もし異議を申立てる者がいれば即座に斬りすてそうな八郎に押され、浪士たちはことごとく賛成した。驚いた浪士たちが何も言えないでいると、八郎はあらかじめ用意しておいた血判状に各人の血判を集め、芹沢 鴨、近藤 勇らも一言も発せず連判したのだった。
 ただ一人、虎尾の会からの同志・池田徳太郎だけが署名しなかった。
 八郎が池田に
「なぜ連判しない」と鋭く聞くと、「母の容態が思わしくないのだ。しかし、こんなことをしてはいけない。連判を強要する君に何の権利があるのか。」と答えた。
 池田は八郎が許せなかった。八郎のためにと、連座して1年間も獄中で苦しみながらも、同じく連座して獄中にあった八郎の妻・お蓮、弟・熊三郎を金策し助けてきた。大赦後も浪士募集のために武蔵、上州、甲州、房州、総州、常陸と遊説して回った。にもかかわらず、生死を共に誓った自分に、このような上書を草していたことを打ち明けてくれなかった八郎に憤怒したのである。八郎は池田の表情に殺気すら感じ取り、
「帰りたまえ。去る者は追わぬ。」と悲しく静かに言った。池田は「君の首も細くなったな・・・」と言い残し立ち去った。八郎は、長年信頼の置ける同士として畏敬していた池田が、こんな行動を取るとは思いもしなかっただろう。池田を信頼の置ける同胞と安心しすぎたことからくる過信が招いた八郎の誤算であった。脱退の理由に母の病気を挙げたのは、長年同胞としてわが身を捧げてきた八郎への配慮であろう。池田は決別後も八郎の動向を案じていたという。

 翌日の2月24日、八郎は、浪士の中から特に才弁と胆略に長けた、
河野音次郎、宇都宮左衛門、和田理一郎、森土四郎、草野剛三、西 恭輔の6名を選び、決死の覚悟をもって、当時国事参政の詰めている京都御所の学習院へ出頭し、当番の鴨脚和泉、松尾伯耆へ面会を求めたが、幕府の取り扱うべき浪士の上書を順番を踏まず直接受け入ることはできないとし、口論となった。この日、参政御当番の橋本宰相中将は、当番の鴨脚、松尾が受付で6人の浪士と議論しているのを聞き、しばらく考えてから6人を階下に呼び入れた。河野音次郎は中将に熱弁し、死を決した6人の態度に感動した中将は上書を採納、しかも、浪士組宛てに勅諚(天皇のお言葉)を賜わったのだった。身分の低い浪士が天皇から勅諚をもらうなど前代未聞の出来事である。ここに八郎の回天が成った。

勅諚の内容は次のとおりである。

近年醜夷猖獗を呈し皇国を覬覦、実に容易ならざる形勢につき、万一国体において神器を欠くの事は列祖の神霊に対しなされ、これ全く当今寡徳のゆえとなされ、宸襟を痛めなされ候につき、蛮夷拒絶の叡旨を奉じ、固有の忠勇を奮起し、すみやかに掃除の効を建て、上、宸襟を安んじ、下、万民を救い、醜虜をして永く覬覦の念を絶たしめ、国体を汚さざるようとの叡慮におわしなされ候事。

また、関白鷹司政熙からの達文は次のとおり。

醜夷拒絶の期、一定するにおいては、闔国の人民力をあわせ忠誠に励むべきは勿論の儀、.先達有志の者、誠を以て報国尽忠、周旋致すべきの儀、叡感に達しななめならず、これによって、なお又言路を洞開し、草莽微賤の言といえども叡聞に達し、忠告至当の論と否を論ぜず、雍塞せざるようとの深重の重召に候間、永く忠言を韜せず学習院へ参上、御用掛の人々にまで、揚言迎え出され候につき、相心得申出づべく候なり。

◎芹沢、近藤らとの決別

 この時期、江戸では幕府の外国奉行が生麦事件の代償についてのイギリスからの強硬な談判を持て余していた。そのイギリス側からの条件とは、@島津久光を引き渡す。A賠償金を差し出す。上記いずれかが実行されない場合は軍艦を差し向ける、というものだった。判断に窮した外国奉行は、上洛中の将軍の決裁を求め、二条城に駆け込んだ。
 これを聞いた八郎は、同年2月30日、朝廷に2回目の破約攘夷(生麦償金拒絶による開戦)を約束する建白書を上書。そして3月3日、関白から攘夷決行のため東下(関東へ戻る)の命が下った。これを受け、3月5日、3回目の建白書を上書する。こうして、浪士組の東下は3月13日に決定された。
 東下前日の3月12日、八郎は、関東へ戻る旨を浪士組全員に報告するための集会を企画し呼び出した。八郎は、
「この度、生麦事件で英国は強硬な談判をはじめ、次第によっては軍艦を差し向けるとまで脅迫いたしている。我等もとより異人を払う急先鋒にと存ずるにより、まず横浜に参って鎖国の実をあげ、攘夷の先駆けをいたさん所存である」と言い、浪士たちに攘夷決行のため東下する旨を伝えた。しかし、近藤 勇、芹沢 鴨はもってのほかという顔をして、「これは清河殿のお言葉とも存ぜぬ。我等承るに今だ天朝よりご沙汰無きのみか、将軍家にも東下がない。我等同志13名だけは京に残り申す」とキッパリと断った。一触即発の険悪な事態となったが、山岡の仲介でその場は納められたが、八郎は、怒り心頭で「お勝手に召されい!」と畳を蹴って席を立った。
 このとき、清河に反対し京に残った浪士は22名、うち
13名(【近藤一派8名:近藤 勇・土方歳三・沖田総司・永倉新八・山南敬助・原田佐之助・藤堂平助・井上源三郎】 【芹沢一派5名:芹沢 鴨・平間重助・新見 錦・野口健司・平山五郎】)が後に「新選組」となる。
 芹沢 鴨・近藤 勇ら京都残留浪士22名と、斎藤 一、佐伯又三郎を加えた24名は、その足で、浪士組の責任者・鵜殿鳩翁を訪ね委細を話すと鵜殿も芹沢らの意見に同意し、京都守護職で会津藩主・松平容保預りということになった。
 3月13日、浪士組は関東へと旅立つ。

 天皇に上表文を提出し勅諚を賜るという奇想天外な事を成し遂げた一介の浪士を幕府が黙っているはずが無かった。しかし、既に「浪士組は、攘夷戦争に備えて東帰せよ」との関白鷹司輔熙からの勅諚が出てしまっているため、破約攘夷(生麦償金拒絶による開戦)を約束する羽目になった幕府は、3月13日、いったん浪士組を江戸に戻すことになる。
 しかし、幕府は、朝廷に破約攘夷を約束するはめになったものの、浪士組東帰後も、江戸の幕閣は破約攘夷実行の気配を見せず、八郎は単独での攘夷(横浜居留区襲撃)を画策する。浪士は八郎ら一行が上洛した後も続々と参集し、何百人という浪士たちが八郎の手先として働く恐れがあり、八郎は幕府にとって最も危険な人物の一人になってしまった。回天から2ヵ月後、八郎は、幕府の刺客・佐々木只三郎らに暗殺される。

 八郎の死後、清河に反対し京都に残った近藤勇、土方歳三、沖田総司ら試衛館の面々と芹沢鴨ら水戸派志士は京都護衛(会津藩預)の『新撰組』に、それ以外の江戸に帰還した浪士組は、八郎暗殺後『新徴組』と改名し、庄内藩預かりの江戸市中取締警護にあたらせた。浪士組は八郎の意志とは袂を分かつことになるのだが、明治維新の魁・清河八郎の志は幕末という波乱の時代の起爆剤となった。

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