八郎はたくさんの著作を残しており、その大半が山形県指定文化財になっている。日記には『旦起私乗』全3冊、『私乗後編』全3冊があり、生まれた年から23歳の正月まで全文漢文で書いている。生まれた年から17歳までは記憶をたどって書いたものらしい。日記のタイトル「旦起」とは朝早く起きて勉強する、という意味で、八郎の性格を端的に表している。
学者としての著作物は13冊あり、活字を買って弟子たちに印刷製本させ出版したものである。
著作物で最も目をひくのは、母の老後の楽しみにと書き残した旅日記『西遊草』である。
― 安政2年正月下旬。
八郎が26歳の時、神田三河町に開いた清河塾が開塾3ヶ月にして大火で焼失し、八郎は失意のまま実家に帰ることになる。実家に帰り、母親の亀代と一緒に伊勢詣での旅に出ることになり、下男の貞吉と連れだって3月20日、清川を出立したのだった。「伊勢詣で」は道を越後にとり、北国街道を通り、善光寺に詣で木曽道を行き、女人禁制の福島の関を避けながら、途中伊那谷から大平街道を通り、中山道、追分、伊勢街道に至り名古屋に出る。その後、奈良・京都・大阪・兵庫、播磨の名松、岡山から四国に渡って讃岐の金毘羅に詣で、田度津から船で瀬戸内海を満喫し、宮島を回って周防錦帯橋を渡って岐路につく。
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江戸に入ったのが7月12日のことで、母・亀代は塾再開を促す。それで薬研掘に売り家を見つけて手付け金を払って、8月23日江戸出立。安積五郎も一緒に行くことになる。9月10日ようやく清川に帰った。この170日に及ぶ旅の記録が『西遊草』全11巻8冊である。母親にも読めるように文章は易しく、八郎の人柄が伺える旅日記である。
※『西遊草』『旦起私乗』『私乗後編』原本清河八郎記念館に保管されています。
■現在入手できる「西遊草」
◆東洋文庫「西遊草」…清河八郎研究の第一人者小山松勝一郎氏訳
◆岩波文庫[西遊草」…原文掲載。語句は別註あり。