斎藤家のはじまりは、清和源氏の分かれである越智氏が京都から下ってきて斎藤を名乗ったという。つまり平安末期から鎌倉時代初期にかけての旧家で、南北朝時代には斎藤外記という武将がかなりの戦功をあげたらしい。伝説では、文治2年(1186年)、源義経ら主従が京都から奥州平泉の藤原家にのがれる途中、清川に寄っており、その時に斎藤家が世話し、義経から鬼王丸という刀を与えられたという。
源義経が清川に立ち寄ったことは有名で、御諸皇子神社で一夜を明かし、清川から最上川を船で上ったと「義経記」に出てくる。その時、御諸皇子神社に奉納されたという義経の笛や弁慶の祈願文が今でも残されている。八郎の祖母は宮曽根村(余目地区)佐藤市郎左右衛門の出で、義経に忠誠をつくした佐藤継信の子孫だという。庄内有数の名門である。
斎藤家がこの地で酒造業を始めたのは江戸初期のころからで、醸造石数は500石前後、一升瓶にしておよそ5万本に当たる。それをすべて店先で小売りしていた。酒の原料の米は自家米だから原料代はただ同然、「斎藤家の利益は計りしれない」と噂されたほどの大金持ちだった。当時は酒が現在よりはるかに高級品だったので、酒一升をためしに3千円と換算してみよう。それが、5万本だから、年収1億5千万円になる。
江戸時代、江戸で生活をする人々は月に1両あれば1家族がなんとかやりくりできていた。一両を5万円と考えると、一般庶民の生活費は年間60万円程度である。斎藤家がいかに大金持ちだったかわかる。
もっとも斎藤家の収入は酒造だけではなかった。立谷沢川から採れる砂金を取り扱っていたのである。農民が川で砂金を採ってくると斎藤家が買い取り、それを酒田の豪商本間家にまとめて持っていく。はたしてこれがどれほどの金額になったかはわからないが、斎藤家が清川でどれほどの有力者であったかは想像がつくだろう。
斎藤家は代々、治兵衛を名乗ってきた。八郎の父・治兵衛豪寿(ひでとし)は酒造業をもり立て、働き者であると同時に学問・芸術に深い関心を寄せていた。八郎はその長男で、2歳下の長女・辰、4歳下の次女・家、5歳下の次男、熊次朗、7歳下の三男・熊三郎の5人兄弟。
八郎は江戸で学問をするため、18歳の時に家出をしたが、長男が家を継ぐのが当然の当時では驚天動地のことだった。その後、両親は学者として身を立てたいという八郎の志に負け、次男・熊次朗に家を継がせようとした矢先、熊次朗は13歳で病死してしまった。
結局、長女・辰が婿を迎え斎藤家を継ぐことになった。三男・熊三郎が家を継がなかったのは、経営者としての器に欠けていたからのようだ。八郎は熊三郎を江戸に呼び、学問と剣道を修行させた。剣の才能はあったが、学問はついに芽がでなかった。八郎が熊三郎を叱る手紙などが残っていて興味深い。熊三郎は八郎と行動をともにし、浪士組に名をつらね京都まで行っている。
庄内藩は幕府の親藩だったせいで、幕府側に暗殺された八郎の家族に対して、明治維新後も冷たかった。
しかし、八郎の妹・辰の息子・正義は、2、6〜9代清川村長を歴任している。
●2代(明治27年2月23日〜29年12月14日)
●6代〜8代(明治36年10月3日〜大正元年12月9日)
●9代(大正2年4月27日〜3年11月30日)
斎藤治兵衛(正義)⇒
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また、正義の子(辰の孫)に当たる斎藤清明は一高(東京大学予科)に進み、大伯父・清河八郎の研究論文を書き、山形出身の学者・大川周明博士の力を借りて大作「清河八郎」を出版した。
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清明の妹の栄子は、直木賞作家の柴田練三郎(代表作に「眠狂四郎」など)と結婚し、柴田練三郎は「清河八郎」という長編小説を発表している。
←昭和38年6月8日、第二回清河八郎文化賞授賞式に来形した折、清河八郎墓参りしたもの。
柳川泰峰前歓喜寺住職より説明を受けている。
また、同じく清明の弟・斎藤磯雄はフランス文学者としてつとに有名で、「ヴィリエ・ド・リラダン全集」、「ボオドレエル全詩集」の翻訳をはじめ、文学者・詩人として活躍した。
酒田中学校、法政大学卒業、明治大学講師、教授を歴任し昭和39年には大学院教授となる。昭和50年に海外研究員として渡米し、昭和58年、大学院仏文学専攻主任を最後に定年退職。昭和60年、73歳で亡くなり、八郎と同じ東京小石川伝通院に眠る。
←文学者・詩人として活躍した、斎藤磯雄。
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現在、八郎の子孫・斎藤家は東京に移り住んでいる。八郎の生家は取り壊され、現在は工場用地となっている。
清河八郎が生まれ育った天保年間は、大飢饉といわれる凶作の時代だった。食べるものがなく餓死者が続出し、全国で農民一揆や打ち壊しが多く起こった。目を海外に向ければ、世界一の大国・清(中国)が阿片戦争(1840〜1842年)によってイギリスに負け、香港を譲り渡し、上海など5港を海港した。植民地として次の標的は明らかに日本で、日本に開国を求めるロシア、アメリカ、フランス、イギリスなど西洋列強の戦艦が日本近海にあふれていた。ところが250年以上の平和に慣れきった徳川幕府には、戦うにも武器はなく、武士道精神もすり減っていた。そのため武力で脅しをかけるアメリカのペリーに屈服し、下田、箱館(函館)を海港することになった。(1854年)
やがてアメリカ、イギリスなどと貿易が開始され、多くの外国人が日本に入ってくると、貿易は民衆に利益を与えるどころか、米、生糸など日常生活品が一気に高騰し、民衆の暮らしはいっそう苦しくなってきた。また、東洋人を軽蔑しきった西洋人の横暴が至るところで目につきだした。それだけではない。西洋人が入ってきたことで、今までは日本にはなかったコレラという伝染病まで入ってきて、全国で「ころり病」といって恐れられた。
民衆の苦しみ、幕府や武士たちの無能、西洋人の横暴などさまざまな要因が一気にふきあがり、それに対抗するために「尊皇攘夷」志士たちが全国に立ち上がったのだった。