万延元年(1860年)3月3日、現在の暦で4月中旬に当たるその日は、季節外れの大雪となった。 60名近い側近に護衛された時の大老・井伊直弼(いいなおすけ)は、江戸城桜田門に待ち伏せた、たった18名の水戸藩士により暗殺される。世に言う
「桜田門外の変」である。
安政5年(1858年)、大老・井伊直弼独断による「日米修好通商条約」調印、徳川家茂の将軍職継承へ反対した尊皇攘夷派・一橋派の大名・公卿・志士(吉田松陰・橋本佐内ら)をことごとく処刑した
「安政の大獄」は、連座した者100人以上にのぼった。冷酷な井伊に対する制裁であった。
しかし、日中、いとも簡単に大老が暗殺されるという前代未聞の大事件は、幕府の面目はつぶれ、民衆は赤穂浪士の討入りにたとえ、大老の首級を奪った16名の浪士を称えた。これを境に幕府は衰退していくことになる。
「桜田門外の変」の1ヶ月前、八郎は
『虎尾の会』を結成する。”国を守るためなら虎の尾を踏む危険も恐れない”という意味がこめられている。
集まったのは直参旗本の
山岡鉄太郎(鉄舟)、松岡万、薩摩藩士の伊牟田尚平、益満休之助をはじめ15名。目的は尊皇攘夷−外国人を日本から追い払い、天皇を中心に日本をひとつにまとめて事に当たる、というものだった。
■『虎尾の会』メンバー
幕 臣
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山岡鉄太郎
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浪士組取締役・明治天皇の侍従
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松 岡 万
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浪士組取締役・警視庁大警部・明治の大岡越前と称される
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薩摩藩士
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伊牟田尚平
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西郷隆盛の密命を受け、益満らと江戸市中攪乱
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樋渡八兵衛
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伊牟田・神田橋らとヒュースケンを斬る
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神田橋直助
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「寺田屋の変」直後、切腹
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益満休之助
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勝海舟の命で山岡と西郷の会談を手助け
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美玉 三平
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「但馬生野の変」首謀者
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浪 人
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安積 五郎
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天誅組として挙兵
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池田徳太郎
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浪士組・東北征討遊撃軍副参謀・青森県知事
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村上俊五郎
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浪士組・八郎没後、5年間入牢、山岡の庇護を受ける
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石坂 周造
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浪士組・八郎没後、5年間入牢・石油事業の先覚者
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北有馬太郎
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八郎無礼人斬りのとき牢死
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西川 練造
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八郎無礼人斬りのとき牢死
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桜山 五郎
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浪士組・「池田屋の変」に関り斬首
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内 弟 子
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笠井 伊蔵
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咸臨丸で剣術方として渡米・八郎無礼人斬りのとき牢死
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※のちに土佐勤王党で、坂本龍馬も「虎尾の会」に名をつらねる
ペリーの黒船来航(嘉永6年・1853年)し、井伊直弼大老が天皇の勅許(許可)を得ずに日米通商条約に調印したのが安政5年(1858年)。それ以来、外国との貿易が始まるや日本国内はさまざまな混乱をきたすようになった。民衆に真っ先に押し寄せてきたのは物価の急上昇だった。米をはじめ日常品の値段が鰻登りに上がった。いずれアメリカ、イギリスは日本を清国のように武力で征服し、植民地にしようとしているのは明らかだったにもかかわらず、幕府はアメリカの脅しに負け、言うがままになっている。そして大老暗殺という前代未聞の大事件。幕府の弱体化さらけ出し、不平不満は限界に来ていた。
ほうっておいても幕府は内部からつぶれてしまうだろう。だが、幕府が自然消滅するまで待っているわけにはいかない。幕府の崩壊に日本国民が道連れにされたのではたまったものではない、と八郎は考え、国の行く末を憂う朋友・同胞を参集し『虎尾の会』結成となった。
しかし、同じ年の12月5日、虎尾の会同志だった伊牟田尚平らがアメリカ公使館通訳の
ヒュースケンを暗殺、これにより清河塾への幕府の監視の眼が強くなり、翌年の文久元年(1861年)5月20日には幕府の罠にはまり、八郎は町人を無礼打ちにしてしまう。そして八郎は幕府のおたずね者となり、1年半におよぶ逃亡生活が始まる。虎尾の会同志もばらばらになった。