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●吉村寅太郎【よしむら とらたろう】
◎国を憂い、勤王の志を貫き通した無念の志士

吉村寅太郎
 天保8年(1837年)4月18日、土佐国高岡郡北川村の庄屋の家に生まれる。

 12歳で父の職を継いで高岡郡北川村庄屋となり、安政元年須崎浦下分庄屋。6年檮原村番人庄屋に転じ、それぞれの任地で冶績を挙げた。その間高知城下に出て、楠山庄助の塾で学び、また間崎哲馬に師事して修学に努め、武市半平太(瑞山)の門に出入りした。 
 文久元年(1861年)、武市半平太(瑞山)を筆頭とする土佐勤王党に加盟し、勤王の志士として活動する。
 文久2年(1862年)2月、武市の密旨を含んで長州藩の久坂玄瑞を訪ね、伏見挙兵計画の情報を得て土佐に帰郷するのだが、情勢の切迫に激して、3月6日同志宮地宜蔵と約して脱藩、長州を経て大阪に留まる。
  この時期、逃亡中だった八郎と出会い、薩摩島津公を擁しての挙兵を画策していた八郎と意気投合する。4月23日同志と伏見に集結した。しかし、同日伏見寺田屋の変のため計画が破れて藩に拘束されるがすぐに放免される。
 文久3年(1863年)2月再び上京し、孝明天皇の攘夷祈願行幸に際会して意気上がり、尊王攘夷運動の中心のひとりとして活躍し、各藩の志士を集めて討幕軍を組織した。
  同年8月、前侍従中山忠光を擁して、藤本鉄石、松本謙三郎らと大和に挙兵、「天誅組」と称して五条代官所を襲撃した。「天誅組の変」である。
 しかし、18日、京都においてしばしば偽勅を発していた三条実美ら攘夷過激派の公卿7人と尊王攘夷派の中心だった長州藩が、公武合体派たちによるクーデターによって御所を追われ京都から追放されるという事件が起こった。世にいう8月18日の政変である。このために形勢は逆転し、諸藩連合軍の追討に苦しめられた。9月27日鷲家口に潜伏していたのを包囲され、壮烈な戦死を遂げた。辞世には幕府に対する怨念と無念さがこもっており凄惨である。

    吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ

 文久3年(1863)9月27日。享年27歳
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