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●山岡鉄太郎(鉄舟)【やまおか てったろう・てっしゅう】
◎『幕末の三舟』と称された八郎の盟友。

山岡鉄太郎(鉄舟)
 天保7年(1836年)6月10日、江戸本所に幕府御蔵奉行・小野朝右衛門高福の四男として生まれる。母は塚原磯女。のちに勝海舟、高橋泥舟と並び「幕末三舟」の一人。
 幼少時代は、飛騨郡代となった父に従い、飛騨高山で過ごす。書家で弘法大師流入木道(じゅぼくどう)五十一世・岩佐一亭に学び、15歳の時に五十二世を受け継ぎ、一楽斎と号す。16歳の時に母が、翌年に父が亡くなり、父の遺産を持って江戸へ出る。
 安政2年(1855年)、幕府の講武所に入り、北辰一刀流の千葉周作道場で剣を学ぶ。また、同時期に山岡静山に槍術も学び、静山没後、静山の弟・謙三郎(高橋泥舟)の強い希望もあり山岡家の養子となる。妻は謙三郎の妹英子。山岡は武芸にも非凡で、幕府講武所剣術の教授方世話役となる。
 山岡は、身長六尺二寸(188センチ)、体重二十八貫(105キロ)と、当時としては並外れた体格であった。
  安政4年(1857年)、同じ千葉道場の先輩にあたる八郎と出会い、八郎の尊王攘夷論に強く共鳴し親交を深める。山岡は年下であったが、八郎もまた山岡に一目置き、良き友、理解者として絶賛している。万延元年(1860年)、八郎の下に尊攘派が集まるようになり、『虎尾の会』が結成され、山岡も一員としてその名連ねる。山岡自身、幕府内でもかなりの攘夷論派だった。幕臣として虎尾の会に名を連ねた松岡 万とは同胞であった。
 山岡は、八郎が無礼斬りで潜伏中も連絡を取り合い、文久2年(1862年)、八郎が水戸潜伏中に連座して獄中に入る同胞を救うべく発案した「急務三策」を幕府に取り次ぎ、山岡の説得もあり採用される。これにより、連座して投獄された同胞は免赦となり、同時に「浪士組」募集に至る。文久3年(1863年)、同胞・松岡 万とともに、八郎の発案の「浪士組」の取締役に任ぜられ、将軍徳川家茂の先共として上洛、八郎と行動を共にし、八郎の前代未聞の回天偉業、京都で朝廷より攘夷決行の勅旨を受け東帰(関東に戻ること)すると、高橋泥舟とともに、朝廷より勅旨を賜った以上、攘夷を断行しなければならないと幕閣に訴えるも、幕府にとって要注意人物となってしまった八郎は暗殺され、攘夷決行は絶たれてしまう。
 八郎暗殺の一方を聞くと、同胞・石坂周造が現場に急行し、八郎の首を切り落とし、山岡が預かり隠し、3年後に伝通院に埋葬される。山岡にとって、八郎はかけがえのない同胞であり、大きな存在だった。
「ああ、天、この奇傑を亡ぼす」と嘆いている。

 八郎暗殺のその日のうちに、山岡は高橋泥舟とともに、清河一派として謹慎を余儀なくされた。
 復職から慶応4年(1868年)までの5年ほどは、剣と禅の修業に打ち込んでいた。この頃、浅利又七郎に出会い、一刀流の免許皆伝を許される。その剣はすさまじく、稽古中、ケヤキの一寸板を竹刀で突きぬいたという。禅は芝村(現埼玉県浦和市と蕨市の中間)の長徳寺の住職・願翁について座禅を組んでいた。山岡は殺生を嫌い、家中がねずみの巣のようであったと言われる。もっとも、この頃の山岡家は貧窮し、妻・英子は庭を畑にして野菜を育て、内職で生活を支えていた。それでも客が絶えず、英子は必ず酒を調えて厚くもてなしたと言う。

 慶応4年(1868年)、徳川慶喜は官軍への恭順の意を明確にし、その全権を勝海舟にゆだねて、上野寛永寺に篭り謹慎する。海舟は慶喜の恭順の意をしたためた書状を官軍総司令官・西郷隆盛に届けるため、当初、高橋泥舟に願ったのだが、慶喜が高橋がそばを離れることを許さず、山岡に託す。山岡は精鋭隊歩兵頭各となり、江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、慶喜の意を伝えるために、かつての虎尾の会同胞・益満休之助とともに駿府に向かう。益満は、鳥羽伏見の戦い後、勝海舟のもとに幽閉されていた。山岡の同胞でもあり、薩摩藩士でもあるので、仲介役として、山岡を守る意味で海舟が意図的に同行させたのだろう。山岡は単身で西郷と面会し、海舟の手紙を渡すと、慶喜の気持ちを伝え朝廷に伝言願いたい、と申し出る。そして、涙ながらの山岡の熱誠の説得に西郷は心打たれ、江戸城開城の基礎条件について合意を取り付ける大役を果たしたのだった。この下打ち合わせがあったからこそ、江戸城無血開城がすみやかに行われたのである。
 西郷と会談するため、駿府にある官軍の東征大総督府に向かった際のエピソードであるが、山岡は、沿道に官軍兵士が警備している真っ只中を、「朝敵徳川慶喜が家来、山岡鉄太郎である!大総督府へまかり通る!」と大声で名乗りをあげ堂々と通り抜け、山岡の度胸に、兵士たちは茫然とし何も出来なかったという。会談後日、西郷は山岡のことを、
 「命も名も金もいらぬという男は始末が悪い。しかし、そういう男でなければ天下の大事を語ることはできまい。」と評したという。

 明治維新後は、徳川家達に従い、静岡県に下る。清水次郎長と意気投合し、『壮士之墓』を揮毫して与えたという逸話がある。
 明治4年(1871年)廃藩置県に伴い、新政府に出仕。静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県県令を歴任する。翌年には宮中に入り、明治天皇の従事として仕える。明治20年にはその功績を認められ子爵に命ぜられる。
 また、山岡は、剣・禅・書の達人とし、剣術では『一刀正伝無刀流』を起こし、書も各地で山岡の書が散見される。
 明治16年(1883年)、維新に殉じた志士たちの菩提を弔うため、東京都台東区谷中に『普門山全生庵』を建立し、明治21年(1888年)7月19日、胃癌のため死去。享年53歳。
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