八郎ホーム 回天ブログ 清河八郎記念館 清河八郎 年譜 清河八郎関係人物録
清河八郎人物図鑑 回天の魁士 清河八郎物語 清河八郎リンク

NAVI庄内バナー

●沖田林太郎【おきた りんたろう】
◎沖田総司の義兄。庄内藩預かり・新徴組の組頭。

沖田林太郎
 文政10年(1827年)、八王子千人同心の井上家に生まれる。のち、近藤周助の門人となり、天然理心流剣術を学び免許を得る。弘化3年(1846年)、沖田総司の姉、沖田みつと結婚し、沖田家の家督を継ぐ。
 文久3年(1863年)、八郎が提案した幕府の「浪士組」結成に、試衛館天然理心流一門の近藤、土方、沖田らと共に参加し上洛する。八郎の意に反し、一門、芹沢一派らはそのまま京壬生に残ることとなるが、林太郎は江戸に帰ることを決め、八郎の「浪士組」は江戸へ帰還、当時江戸取締の任にあった庄内藩(鶴岡17万石、藩祖は徳川四天王・酒井忠次)の配下で「新徴組」を結成。清河八郎の暗殺後は勤王色を一掃して庄内藩13代藩主 ・酒井左衛門尉忠篤の預かりとなり、江戸市中の警護にあたった。林太郎は新徴組の組頭に任ぜられる。
  ちなみに「新徴組」と「新選組」はともに「浪士組」から分かれた組織であるが、お互いに交流もあった。例えば「新徴組」隊士の中川一と「新選組」局長の近藤勇とはお互いに手紙で交流を続けていたし、「新徴組」のちょうちんには、有名な「新選組」の山形模様が描かれていたという。
 また新選組で粛正された芹沢 鴨の一派、残隊士も編入され、江戸の不貞浪士の掃討、尊皇攘夷派志士と勇猛果敢に戦った。
 やがて薩摩と長州の同盟軍を中心とした倒幕派と幕府軍の戦争、いわゆる「戊辰戦争」が始まり、慶応4年(1868年)、庄内藩主・酒井忠篤の帰郷・庄内に同行、庄内藩士とともに戊辰戦争を戦う。

 明治5年東京へ戻り、明治6年(1883年)死去。

   八郎ホームへ  回天ブログへ    人物目次ページへこのページのトップへ


各ページに掲載の写真・音声・CG及び記事等の無断転機を禁じます。
Copyright(c)2006 回天の魁士 清河八郎 All rights reserved.      | プライバシーポリシー