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■清河八郎像(藤本鉄石筆)
   【清河八郎記念館蔵】


●清川村と庄内町
 清河八郎が生まれる140年前。「奥の細道」紀行で最上川を下り、清川の地を踏んだ松尾芭蕉は、最上川の雄大な姿をこのように俳句に詠んだ。
 ・五月雨を
    あつめてはやし 最上川

 
・暑き日に
     海に入れたり 最上川

 清川は奈良時代から水駅・陸駅の宿場として栄えた地だった。最上川は人と物を運ぶ水上交通路として重要で、明治の初年の頃、舟業72戸、旅館13戸があった。東日本の大商業都市・酒田から江戸まで荷物や人を運ぶには、清川から船に乗って新庄藩領の清水や本合海で降り、そこから陸路で仙台、江戸に出る。そのため清川村には関所があり、ターミナルのような賑わいがあった。


■清河八郎グラフィティ

『清河八郎グラフィティ』は、平成9年、旧立川町で発刊された冊子です。八郎の波乱に満ちた人生を、わかりやすく解説した本です。   【1冊 700円】

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清河八郎人物図鑑
清河八郎とは?

◎誕生と齋藤家

 幕末の尊攘派志士、清河八郎(1830〜63年)は、天保元年10月10日、庄内藩(山形県)領出羽国田川郡清川村(現庄内町)の郷士、齋藤治兵衛と亀代の長男として生まれた。 斎藤家は、庄内一の醸造石数を誇る酒屋であった。 父・齋藤治兵衛豪寿は清川村の素封家、母・亀代は鶴岡三井家の第三子、兄弟は弟に熊次郎、熊三郎、妹に辰代、家の5人兄弟。
 八郎の幼名は元司、名は正明。、清河塾開塾の際、その名を清河八郎と号した。故郷清川を流れる最上川を大河の意味の『河』に変えて「清河」とし、故郷を立て称したと伝えられている。 

◎幼少時代

清河八郎肖像画【清河八郎記念館】
 天保4年(1833年)、元司(八郎)4歳のとき。世に言う「天保の大飢饉」が起こり、清川村も天候不順、最上川の大洪水などで大凶作の年だった。しかし、庄内藩の年貢米取立ては厳しく、村人は生活困窮に陥っていた。そんな中、清川村の若者16人が齋藤家の蔵に押し入り、藩からの預かり米を盗むという事件が起こる。その時、蔵の酒造用大釜の陰に隠れて一部始終を見ていた3歳の元司(八郎)が家の人にそのことを話し、押し入った16人全員が藩に捕獲される。父・治兵衛は藩に対し助命嘆願を行うが、願いかなわず15人が斬首、一人が追放となる。村人は村の窮地を救おうとした16人の若者を悼み、元司(八郎)を非難する声もあったが、4歳の元司(八郎)の明敏さと胆力に驚いたという。

◎学問と剣術〜学びの修行時代〜

 天保8年(1837年)、元司(八郎)7歳のとき、父・治兵衛より孝教の素読を受けはじめ、10歳になると、鶴岡の伊達鴨蔵から学問、清水郡治に書を学ぶ。しかし、元司(八郎)はワンパクで悪戯好きな悪童だったため塾を追われてしまう。
 天保14年(1843年)、14歳のとき、清川関所役人だった畑田安右衛門に師事し、論語・孟子・易経・詩経・文遷を学ぶ。
 弘化3年(1846年)、17歳となった元司(八郎)は、酒田の伊藤弥藤治に剣の手ほどきを受け始める。同年5月、東北巡遊中だった藤本鉄石(当時30歳:後の天誅組総裁)が齋藤家を訪ね清川に滞在する。鉄石との出会いは、17歳となった元司(八郎)に江戸遊学の志に火をつけた。

◎江戸遊学時代

 弘化4年(1847年)、18歳で江戸に出て、江戸古学派の東條一堂に師事し経学を学び、東条一堂塾の三傑に数えられた。嘉永4年(1851年)には東条塾の塾頭に推挙されるが、昌平坂学問所を志し当時最高学府の安積艮斎塾に移る。そこで推薦を受け、安政元年(1854年)3月、晴れて昌平坂学問所に入学する。しかしこれに失望し、この年、弱冠25歳を以って江戸神田三河町に『清河塾』を開いた。この時、名前を「清河八郎」に改めている。
 剣は、嘉永4年(1851年)2月に千葉周作の北辰一刀流玄武館に入門し、翌年に初目録、安政5年(1858年)に中目録、万延元年(1860年)に北辰一刀流兵法免許を得る。清河八郎は文武兼備の英士であった。

   ■北辰一刀流兵法免許→
     【清河八郎記念館蔵】
北辰一刀流兵法免許

◎諸国漫遊と西遊草

 八郎の旅好きは有名だが、それ以上に八郎の学問への意欲は目を見張るものがあった。
 嘉永元年(1848年)、19歳のとき、叔父の弥兵衛一行と大阪〜広島〜岩国〜四国〜京をめぐる約4ヶ月の漫遊をする。八郎は京遊学を望むが、その年弟・熊次郎の病死により一旦実家に戻ることになる。しかし、京遊学をあきらめきれず、嘉永3年(1850年)、3年間の許可を得て上洛、梁川星厳に師事する。しかしそれも物足りず、ついに九州を目指す。小倉〜福岡〜大宰府〜佐賀〜諫早〜長崎〜熊本〜日田〜日出と、有名な文人学者を訪ねながらの2ヶ月あまりの旅となった。その後江戸に戻り、東条塾から安積良斎塾に移る。
 その後、安政2年(1855年)、母・亀代を連れて北信〜伊勢めぐる母孝行の旅に出る。その時の旅日記が紀行文「西遊草」である。

虎尾の会〜尊皇攘夷の志〜

 八郎が志士としての活動を開始するのは、万延元年(1860年)、時の大老・井伊直弼が、白昼少数の水戸浪士に暗殺された、桜田門外の変後のことである。桜田門外の変の1ヶ月前、八郎は『虎尾の会』を結成する。”国を守るためなら虎の尾を踏む危険も恐れない”という意味がこめられていた。
 メンバーは直参旗本の山岡鉄太郎(鉄舟)、松岡万、薩摩藩士・伊牟田尚平、益満休之助をはじめ15名。
 「目的は尊皇攘夷−外国人を日本から追い払い、天皇を中心に日本をひとつにまとめて事に当たる」というものだった。
 同年12月-虎尾の会の益満新八・伊牟田尚平・樋渡八兵衛らが、米国ハリスの通訳ヒュースケンを暗殺し、八郎の清河塾は幕府に監視されることになる。翌文久元年(1861年)、幕府の罠にはまり、幕府の手先を無礼斬りしてしまう。このことで八郎は追われる身となり、虎尾の会同志・妻お蓮・弟熊三郎らが連坐して投獄されてしまい、虎尾の会は分散してしまう。八郎の逃亡生活が始まる。仙台に潜居中、虎尾の会同士・伊牟田尚平より「廃帝の動きがある幕府に対し、水戸藩士が天皇を奉じて天下に号令しようとしている」ことを聞かされる。伊牟田は故郷薩摩に下り同士を集いこれに応戦する考えを示したが、八郎はこれを良策とせず、上洛して密かに封事を天皇に奉り、薩摩藩の同士を集い勤皇のもとに挙兵する策を押し立てる。

◎九州遊説〜寺田屋の変

 文久元年(1861年)、八郎は同士伊牟田尚平と安積五郎とともに上洛し、田中河内介を介し、当時全国の志士に募り動かそうとしていた、京の公卿・中山忠能の長子忠愛より書簡を預かり九州遊説につく。真木和泉、村松大成、川上彦斎、宮部鼎蔵、平野国臣らと今後の方略を会談している。
 文久2年(1862年)、薩摩藩主・島津久光の上洛が倒幕の狼煙であるという号令のもと、全国各地の尊攘派志士に呼びかけ、京都で挙兵しようと画策した。しかし島津久光の本心は倒幕ではなく公武合体であったため、意見の対立した薩摩藩士同士が斬リ合うこととなった。世に言う悲劇の「寺田屋の変」で、その画策は挫折してしまう。その後再三勅旨が江戸に下り、将軍家茂の上洛と公武一和の義が進展した。
勤皇志士自筆書屏風 ■勤皇志士寄書屏風
     
【清河八郎記念館蔵】
 清河八郎と親交のあった全国の志士による寄書屏風。

急務三策〜回天の浪士組結成

 同年11月、江戸に戻った八郎は、幕府政事総裁・松平春嶽に『急務三策』という建白書を提出する。これは@攘夷を断行する、A浪士組参加者は今まで犯した罪を免除される(大赦)、B文武に秀でたものを重用する、という内容のものだった。幕府は、八郎の建白書に飛びつき、将軍上洛の護衛として『浪士組』編成が許可される。当時江戸でも浪士の横行は酷い状態にあり、八郎の策は浪士懐柔統制にも有効であったため、早速取り上げられることになったのだった。また、これにより、獄中の志士・同志たちの大赦が出され、八郎自身も自由の身となる。しかし、妻お蓮は獄死していた。
 翌年文久3年(1863年)、山岡鉄太郎らを通じ幕府に建言した『浪士組』の編成が成り、将軍警衛の黒幕として上洛した。
 浪士組一向が京都に到着し壬生村へ入ると、八郎は浪士組を新徳寺の本堂へ集めた。

「われらは幕府の募集に応じたが、本分は尊皇攘夷にある。幕府とはなんらかかわりがない。天皇のため、日本のために立ち上がるのだ!われらの真の目的は朝廷を擁立し、外国勢力を打ち払うことである。尊皇攘夷の魁となるが本分なり!」と尊皇攘夷論を演説した。

 突然の話に浪士たちは困惑した。幕府を離れ、直接朝廷の命令をもらおうというのである。驚いた浪士たちが何も言えないでいると、八郎はあらかじめ用意しておいた血判状に各人の血判を集め(虎尾の会同志・池田徳太郎だけ署名しなかった)、翌日、京都御所の学習院へ提出、受理され、浪士組み宛てに勅諚(天皇のお言葉)を賜る。身分の低い浪士が天皇から勅諚をもらうなど前代未聞の出来事である。
 ちょうどこの時、江戸では幕府の外国奉行が生麦事件の代償についてのイギリスからの強硬な談判を持て余していた。そのイギリス側からの条件とは、@島津久光を引き渡す。A賠償金を差し出す。上記いずれかが実行されない場合は軍艦を差し向ける、というものだった。判断に窮した外国奉行は、上洛中の将軍の決裁を求め、二条城に駆け込んだ。
 これを聞いた八郎は、朝廷に2回目の破約攘夷(生麦償金拒絶による開戦)を約束する建白書を上奏。そして八郎は、関東へ戻る旨を浪士組全員に報告するための集会を企画し呼び出した。
 八郎は、「この度、生麦事件で英国は強硬な談判をはじめ、次第によっては軍艦を差し向けるとまで脅迫いたしている。我等もとより異人を払う急先鋒にと存ずるにより、まず横浜に参って鎖国の実をあげ、攘夷の先駆けをいたさん所存である」と言うと、芹沢 鴨はもってのほかという顔をして、「これは清河殿のお言葉とも存ぜぬ。我等承るに今だ天朝よりご沙汰無きのみか、将軍家にも東下がない。我等同志13名だけは京に残り申す」とキッパリと断った。八郎は、怒り心頭で「お勝手に召されい!」と畳を蹴って席を立った。このとき、清河に反対した
13名(【近藤一派7名:近藤 勇・土方歳三・沖田総司・永倉新八・山南敬助・原田佐之助・藤堂平助 【芹沢一派6名:芹沢 鴨・平間重助・新見 錦・井上源三郎・野口健司・平山五郎)が後に新選組となる。 最終的に、斎藤一などの浪士組以外の浪士も含め、京都残留浪士は24名となる。
  
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 芹沢 鴨・近藤 勇らはその足で、浪士組の責任者・鵜殿鳩翁を訪ね委細を話すと鵜殿も芹沢らの意見に同意し、京都守護職で会津藩主・松平容保預りということになった。壬生浪士組⇒新撰組結成となる。

◎清河八郎、死す

 天皇に上表文を提出し勅諚を賜るという奇想天外な事を成し遂げた一介の浪士を幕府が黙っているはずが無かった。しかし、既に「浪士組は、攘夷戦争に備えて東帰せよ」との関白鷹司輔熙からの勅諚が出てしまっているため、破約攘夷(生麦償金拒絶による開戦)を約束する羽目になった幕府は、3月13日、いったん浪士組を江戸に戻すことになる。
 しかし、幕府は、朝廷に破約攘夷を約束するはめになったものの、浪士組東帰後も、江戸の幕閣は破約攘夷実行の気配を見せず、八郎は単独での攘夷(横浜居留区襲撃)を画策する。浪士は八郎ら一行が上洛した後も続々と参集し、何百人という浪士たちが八郎の手先として働く恐れがあり、八郎は幕府にとって最も危険な人物の一人になってしまった。


 回天から2ヵ月後、八郎は、志半ばで幕府の刺客・佐々木只三郎らに暗殺される。
 −享年34歳・・・・

 なお、彼の暗殺後に江戸で再編成された江戸浪士組が新徴組、京都に残った壬生浪士組(【近藤一派7名:近藤 勇・土方歳三・沖田総司・永倉新八・山南敬助・原田佐之助・藤堂平助 【芹沢一派6名:芹沢 鴨・平間重助・新見 錦・井上源三郎・野口健司・平山五郎)が新撰組である。
 
 明治維新は主として薩摩・長州・土佐など関西雄藩の志士によって推進されたものであるが、清河八郎はこれら雄藩の志士に互して、常に主導的に風雲を起こした活躍は、明治維新史上特筆すべきものである。「近世日本国民史」の薯者徳富蘇峰は、清河八郎をもって「維新回天偉業の魁」と称している。

 
■ 清河八郎の墓
伝通院 歓喜寺
【小石川伝通院】東京都文京区小石川
地下鉄春日駅・後楽園駅下車 徒歩約10分

 八郎の首は同士の石坂周造(宗順)によって鉄舟宅へ運ばれた。寺の裏手には、山岡鉄太郎(鉄舟)の私邸があったという。
 山岡は、当時「伝通院」の子院だった「処静院(しょせいいん)」の住職に頼み、「伝通院」の墓地に埋葬したと伝えられている。
【歓喜寺】山形県東田川郡庄内町清川
JR清川駅 徒歩10分

 明治2年(1869年)、八郎の弟・熊三郎により、歓喜寺の齋藤家墓所に改葬れた。

伝通院・歓喜寺ともに、八郎と妻・お蓮がいっしょに並び埋葬されている。

■ 清河神社

 「清河神社」は、八郎没後70年にあたる昭和8年、文武両道の神として、清河八郎を奉り創建。
大正15年9月に内務省より神社創設の許可を得て、全国有志の援助により創建されました。
 毎年 5月5日(こどもの日)には例大祭が盛大に執り行われ、同日に清河八郎顕彰剣道大会が清川小学校体育館にて開催されてます。 
清河神社

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