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●芹沢  鴨【せりざわ かも】
◎八郎と対立。新撰組局長筆頭・水戸の豪傑

芹沢  鴨
 文政10年(1827年)、常陸国行方群玉造町芹沢村(現茨城県行方群玉造町)、芹沢城主の末裔で36代目にあたる豪士、芹沢貞幹の三男に生れる。
 幼少の頃より力が強くワンパクであったが、人望厚く、剣客であり、絵が上手く、子供たちに大人気だった。青年時代は、水戸学と尊王攘夷思想を延方(のぶかた)郷校で学び、剣術は岡田十松の神道無念流を戸賀熊太郎の元で鍛え、免許皆伝の腕前であった。
 
 安政6年(1859年)、前年、大老井伊直弼による勅許なしの日米通商条約調印に際し、天皇からの勅書預かりうけた水戸藩であったが、これを返納せよとの幕府に対し、水戸藩勤王家の武田耕雲斎が水戸天狗党を結成する。
 芹沢はこれに馳せ参じ、天狗党で三百余名を率いた。この時に意見が対立した部下3名を斬り殺したことで罪を問われた芹沢は投獄、処刑されそうになるが、偶々に出た恩赦の為に難を逃れる。
 天狗党においては木村継次とも名乗っていたが、これは勤王家の下村継次にあやかり名乗ったともいわれる。よって本名は芹沢鴨、しかし本当は木村継次が本名だとする説もある。
 その後、芹沢は、新見錦、野口健司、平山五郎、平間重助らと共に行動を共にするようになる。
  文久3年(1863年)、清河八郎が幕府に献策した将軍警護の浪士隊の話を聞くと、新見らと参加して上京する。しかし、八郎の回天の策に真っ先に意を反し、近藤勇ら天然理心流一門と同じく江戸へは帰らず京都壬生に残留、会津藩藩主・松平容保支配のもとに壬生浪士組が結成される。「8月18日の政変」では近藤勇らとともに壬生浪士組を率い、京都御所の警護を担うが、会津藩士に行軍を止められ戸惑っている近藤をみるや、会津藩士に突き立てられた槍を鉄扇で叩き落し、
「会津中将御預、壬生浪士隊ある!!公用方の命なればここを通らせていただく!」
と一喝し、その的確な指揮、迅速な行動が高く評価され、壬生浪士組はその実力を認められる。壬生浪士組の名は朝廷の耳に聞き及び、朝廷から直々に下賜金を賜る栄誉を受けた。さらに、その日のうちに松平容保より正式に京都の治安維持を命ぜられ、「新撰組」の名を賜るのである。芹沢は局長筆頭の地位につく。

 芹沢鴨が乱暴者だったことは有名である。気に入らない事があれば、すぐに周囲の者を殴り付け、徹底的に痛めつけたと言う。「新選組遺聞」の騒擾日記の中に、芹沢鴨について次のような記述が残っている。「芹沢と申す者は、飽くまでも勇気強く、梟暴の者にて配下の者、己が気に合わざることこれ有り候えば、死ぬ程打擲致し候こと之あり候由。」生まれ持った強腕の芹沢に、鉄扇で殴られた者は昏倒したと言われ、愛用の鉄扇には「尽忠報国之士芹沢鴨」と刻まれ、重さは三百匁もあったという。ところが、その乱暴振りから芹沢一派の存在が問題視される様になる。新選組結成時から、芹沢は隊士を率いて京の町でやりたい放題で、大和屋を脅迫し、挙げ句に倉に放火した(一説によると倉に大砲を打ち込んだとも)事件や、大阪鴻ノ池を強談のうえ二百両を得たり、島原角谷において暴れ屋内を破壊するなど、芹沢の乱暴狼藉の暴状は、治安維持の命令を受けた身において有るまじき行為である。京都守護職にしても芹沢らをこのまま放置する訳にもいかなくなったのだった。もう1人の局長・近藤 勇も決断に迫られる。
 文久3年(1863年)9月18日、その夜は大雨だったと云われている。近藤は、芹沢鴨、平山五郎、平間重助の粛正を決行する。芹沢一派を襲撃したのは土方歳三、沖田総司、原田左之助、山南敬介である。寝所で泥酔し寝ていた芹沢は、布団の上から突き刺され一命を落とす。近藤らは芹沢の死を攘夷派の襲撃によるものとし、盛大な葬儀のうえ壬生寺に葬った。この襲撃は京都守護職が命じたとされる説もある。
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