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天保15年(1844年)江戸に生まれる。
津藩藤堂和泉守の落胤とも言われる。北辰一刀流目録の腕前。
文久2年(1862年)頃、深川の北辰一刀流伊東道場で寄弟子となる。道場は伊東大蔵(のちの甲子太郎)が継いでいた。
藤堂は試衛館道場によく出入りしており、近藤と共に浪士隊に参加した。
文久3年(1863年)、八郎が提案した幕府の「浪士組」結成に、試衛館天然理心流一門の近藤、土方、沖田らと共に参加し上洛した。しかし、八郎に意を表し、一門、芹沢一派らはそのまま京壬生に残ることとなる。一同は鵜殿鳩翁らの計らいもあって京都守護職で会津藩主・松平容保のお預かりとなり、ここに壬生浪士組が誕生した。
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同年、8月18日の政変でその存在を知らしめた彼らは、その日のうちに松平容保から市中見廻りの内命を受け、その通達の文書によって「新撰組」の名が与えられる。新選組八番隊組長となる。
新撰組では副長助勤を務め、まっ先に闘いに飛び込むため「魁先生」と言われ、また「近藤の四天王」とも称された。池田屋事件では近藤らと斬り込み、眉間に傷を負っている。
元治元年(1864年)9月近藤らに先がけて江戸に行き、伊東甲子太郎を勧誘した。
慶応3年(1867年)3月10日伊東らと御陵衛士を拝命して新撰組から脱隊。この時、南部与七郎と改名した。しかし、11月18日、新撰組に暗殺された伊東甲子太郎の遺体を引き取りに行き、七条油小路で待ち伏せに合い斬殺された。享年24歳。
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