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●高橋泥舟【たかはし でいしゅう】
◎山岡鉄太郎(鉄舟)の義兄。八郎の良き理解者

高橋泥舟
 天保6年2月17日、山岡正業の次男として江戸に生まれる。幼名は謙三郎 のちに精一郎。諱は政晃。 泥舟は号。高橋包承の養子となる。生家、山岡家は名槍家で、実兄の山岡静山(信吉)に就いて槍を修業し、神業 に達したとの評を得られるほどであった。泥舟が高橋家の養子にでて、生家の方には山岡鉄太郎(鉄舟)が養子に入っている。山岡の義兄に当たり、山岡の妻は、妹・英子(ふさこ)である。勝海舟、山岡鉄太郎(鉄舟)とともに「幕末三舟」のひとりとして讃えられている。
 安政3年(1856年)、泥舟は槍の天才で、22才で講武所槍術教授に任ぜられ、万延元年(1860年)には、同槍術師範に任ぜられる。
 この頃、山岡を介して八郎と親交を深め、八郎にとっては、山岡鉄太郎とともによき理解者であり、攘夷派幕臣の一人でもあった。 
 泥舟を中心に攘夷派幕臣が集まったことがあったが、いわゆる理論武装派ではなく、どちらかといえば心情的なほうであった。
 文久3年(1863年)、八郎の立案で「浪士組」が結成され、将軍家茂の護衛という名目で上洛、泥舟は、一橋慶喜に随行して上洛している。浪士組の取扱として、鵜殿鳩翁に管理させていたのだが、京で八郎が独断で朝廷に上書し勅諚を賜り、尊皇攘夷への回天を計るという前代未聞の行動に出ると、浪士組内部での分裂(芹沢 鴨、近藤 勇ら京都残留浪士を出す等)など、管理が行届かなくなったため、後任の浪士組取扱に泥舟が選ばれ、これにより統括がうまくいったという。また、上洛中の将軍家茂から浪士取扱を親諭され、天下一ともいわれる槍術の天才の技量が孝明天皇の叡聞に達し、勅許を奉じて従五位下に叙せられ、伊勢守を称することになった。
 同年3月28日、浪士組が東帰(江戸に戻ること)すると、山岡鉄太郎とともに、朝廷より攘夷決行の勅諚を賜った以上、攘夷を断行しなければならないと幕閣に訴えるも、幕府にとって要注意人物となってしまった八郎は暗殺され、攘夷決行は絶たれてしまう。
 八郎暗殺の当日、八郎は泥舟邸を訪れ、自分の死を覚悟したかのように、泥舟の妻・お澪に扇を求め、遺書・辞世ともとれる歌を扇に書いて残している。

     ・魁がけて またさきがけん 死出の山 まよいはせまじ 皇(すめらぎ)の道
     ・砕けても また砕けても寄る波は 岩角をしも 打ち砕くらむ
     ・君はただ 尽しましませ 臣の道 妹は外なく 君を守らむ

 この歌を見て不吉なものを感じた泥舟は、
「今日は家を出てはいけない。酒でも飲んでゆっくりと養生したほうがいい。」と八郎に言い、妻・お澪にもきつく言って登城していったという。しかし、八郎は「約束は破ってはならないので」と言い残し、金子与三郎が手配した駕籠に乗った。そして八郎は佐々木只三郎らに暗殺されてしまう。泥舟は八郎の死を心から悲しんだ。八郎暗殺のその日のうちに、泥舟は山岡とともに、幕臣といえども八郎と懇意であったため、清河一派にかかわる人物として、解職、閉門を命じられる。その後、一時は小普請人差控となるが、また、講武所槍術師範に復帰する。慶応2年(1865年)、新設の遊撃隊の頭取となり、槍術教授頭取を兼任する。
 慶応3年(1867年)11月9日、将軍徳川慶喜は大政奉還(朝廷に政権を返上する)し、薩長諸藩等の討幕の士気を防ごうとしたが、これが裏目となり、明けて慶応4年(1868年)正月に、鳥羽・伏見の戦いが勃発、幕府はこの戦いに破れ江戸に敗走する。泥舟は謹慎する慶喜の警護にあたり、慶喜に絶大な信頼を受けていた泥舟の説得もあり、将軍徳川慶喜は官軍への恭順の意を明確にし、その全権を勝海舟にゆだねて、上野寛永寺に篭り謹慎する。海舟は慶喜の恭順の意をしたためた書状を官軍総司令官・西郷隆盛に届けるため、その使者として、誠実剛毅な人格を見込んで泥舟に願った。しかし、泥舟は慶喜から絶大な信頼を寄せられ、遊撃隊と精鋭隊を統率し慶喜の身辺警護にあたっていたため、江戸の不安な情勢のもと、主君を丸裸にし側を離れることができなかった。代わりに義弟の山岡鉄太郎(鉄舟)を推薦し、山岡が見事にこの大役を果たした。これにより江戸城無血開城がすみやかに行われることとなった。

 維新後は、徳川家が静岡に移住するのに従い、地方奉行などに任じ、東京に隠棲して書を楽しみ余世を送った。
 明治20年に山岡鉄太郎が亡くなると、山岡には多額の借金があり、泥舟がその処理をしなければならなくなった。もっとも泥舟自身も金は無く火の車だったため、金策に走り回ることになり、質屋をしていたかつての門人に1500円の借金を申し込む。当時の銀座・日本橋の地代が坪30〜50円であったので、相当な金額であることが分かる。質屋の主人は驚いて「抵当の品はなんでしょうか」とたずねると「この顔が抵当です。当然弁償するつもりでありますが、死生ははかりがたい。もしものときは熨斗(のし)をつけて私に下さるまいか」と泥舟は答えた。さすがに主人もあっけにとられたが、「高橋様なら決して人を欺くことなどないでしょう」と顔一つの担保を信用して引き受けた。こんな泥舟の人徳を思わせるエピソードがあった。
 勝海舟は後年、「あれは大馬鹿だよ。物凄い修行を積んで槍一つで伊勢守になった男さ。あんな馬鹿は最近見かけないね」と高橋泥舟を評している。槍一筋、節義一筋に生きた泥舟の生き方を勝流に賞賛した言葉であろう。

 明治36年2月13日、牛込矢来町の自宅で没す。享年69才。
 墓は東京都台東区谷中六の大雄寺にある。
  

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