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天天保11年(1839年)、山形県東田川郡熊出村の医師・菅原正庵の四女として生まれる。
家が貧しく、10歳のときに養女に出されているが、17歳で遊郭に売られる。その年に客として上がった八郎と出会う。
この時、八郎は同門の後輩でもあり同志の安積五郎を連れ、清川に帰郷していた。その日は安積とともに鶴岡の湯田川温泉に遊びに出向いたときの話である。
安積が酔った勢いで「節分の豆まきだ!」といい、酒宴の場でお金をばらまいた。すると、酌をしていた女たちが一斉にお金に飛びつき、あられもなく奪い合いが始まった。が、1人だけ悲しげな眼をして端然と座っていたのがお蓮だった。遊女・酌婦と言えば最も身分の低い女とされていたが、八郎はお蓮の「心」に惹かれたのである。お蓮の本名は高代といったが、
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「蓮の花は泥水に染まらずに香り高く咲いて清らかだ」と言って、八郎が命名したのがお蓮だった。当然、斎藤家では大騒ぎとなり、八郎は勘当同然でお蓮と結婚している。
安政3年(1856年)、修行中の弟・熊三郎と一緒に仙台で新婚生活を送り、翌年に江戸に移り住んでいる。清河塾再開の年のことだった。
しかし、文久元年(1861年)、八郎による「虎尾の会」結成に伴い、ヒュースケン暗殺、横浜焼き討ち未遂などで幕府に目をつけられ、町人無礼斬りで幕府の罠にはまると、お蓮は連坐して投獄されてしまう。最後まで八郎を信じ、八郎のためにと耐え抜いたのだが、翌年文久2年(1862年)、獄中、はしかにかかり、いったん庄内藩邸に移されるも死してしまう。24歳だった。翌年、八郎の幕府へ上書が受け入れられ、八郎ほか連坐で投獄された同志が放免されるも、お蓮を失った八郎の悲しみは深かった。
八郎は深い悲しみに落ち、身を挺して自分をかばって死んでいった妻・お蓮に、こう歌っている。お蓮への哀歌である。
御代の為 抜け出し人のいもなれば
身を捨ててこそ 名をばとどめん
― 天皇の世をつくるため 私は敢えて身を隠した。身を捨てて私をかばい通してくれたあなたの名は後世に残ることだろう。―
この他にも追悼の歌を詠んでいる。
【参照】八郎図鑑・ラブレター ⇒ こちら!
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