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●石坂周造【いしざか しゅうぞう】
◎八郎に尽くした同志。日本の石油事業創始者

石坂周造
 天保3年(1832年)1月1日、信濃国水内郡桑名川村(現 長野県飯山市)に生まれる。
 17歳の時、江戸に出て町医立川宗達の内弟子となり、のちに立川の師である両国山伏町の幕府の針医石坂宗哲の養子となり、宗順と称した。事情があり水戸領神崎で医者を開業した。
 佐原(佐原市)で剣術の道場を開いていた村上俊五郎と知り合い、江戸に出て八郎と意気投合し、彼の主宰する「虎尾の会」に名を連ねる。
 しかし、虎尾の会による尊皇攘夷の企てが幕府に悟られると、文久元年5月末無礼町人を手討ちにした八郎と連座して捕らえられ、伝馬町の獄に入る。池田徳太郎とともに、八郎を想い、辛苦を耐え抜き、文久2年暮、八郎の赦免により、出牢して浪士組の道中目付として上洛した。八郎を信じ、八郎の側近としてその傍らにいた。
 八郎が佐々木只三郎に暗殺されると、現場に駆け付けて警備の町方役人に向かって「清河は我が親の仇、ここで殺されてしまったのは仕方無いが、せめて首だけでも下げ渡されたい」と大見得を切り、まんまと八郎の首級と攘夷党への連盟状を奪い、首は山岡鉄太郎(鉄舟)に預けたといわれ、八郎の画策とその首を死守したのだった。
 八郎暗殺後、八郎の攘夷画策の徒党の1人として5年間投獄されることとなるが、山岡の庇護の下放免となる。
 
 維新後の明治6年(1873年)5月、静岡県榛原郡相良町で石油事業を手掛け、日本初の石油事業の創始者となった。菅ヶ谷に開坑、採油を始め、最初は手掘りにより掘削されたが、10月には米国製の綱堀り機により日本で最初の機械掘りが行われる。手掘り井戸の深さは、約100mから180mで、最深の井戸は255mにも及ぶ。この採油は日本石油株式会社によって行われ、明治7年(1874年)には、わが国で最初の機械堀りが行われた。
 最盛期(明治17年頃)には、年間721キロリットル(ドラム缶3,600本位)が産出され、井戸数は240坑で約600人が働いていた。明治から昭和にかけて約80年間、相良の一大事業として広く知られることになるが、徐々に衰退し昭和30年頃すべての事業を閉じる。

妻の桂子は山岡の妻英子の妹けいである。
 
 明治36年(1903)5月22日没。享年73歳。
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