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回天の魁士〜清河八郎物語〜


◎急務三策と妻・お蓮の死

 八郎の使命は振り出しに戻った。ただ、大きな藩は頼りにならない、という教訓を得た。少数精鋭が集まる虎尾の会がいかに優れていたか実感される。寺田屋の変の直後、八郎は孝明天皇(明治天皇の父)に「回天封事」と題した建白書を送った。その末尾に。

「われわれは天下の義人を集めて、数ヶ月以内に必ず大挙します」
 と誓っている。

 京都挙兵に失敗した八郎は江戸に向かった。到着するや山岡鉄太郎に会い、牢獄につながれた妻・お蓮や同志たちの安否をたずねた。当時の牢屋は、4,5年のうちに10人中7,8人は牢死してしまうという過酷なものだった。が、同志の池田徳太郎は入牢するや牢名主になり、外と連絡を取って金の工面などしてお蓮たちを助けていた。地獄の沙汰も金次第である。それも、もう限界だ。
 八郎は政事総裁の松平春嶽に「急務三策」という建白書を提出した。これは、国家存亡に関わるこの時代に、有能な人材を広く世に問うべきであるという内容で、政治犯の大赦(罪を軽くする)を願ったものでもあった。獄中の池田徳太郎、幕臣の山岡鉄太郎、そして八郎がそれぞれに動き、ついに大赦が出された。八郎は自由の身となり、獄中の同志たちも牢から解放された。
 
 しかし、妻のお蓮は帰らぬ人となっていた。お蓮は、獄中、はしかにかかり、庄内藩邸に身柄を移され、その翌日に死亡している。
 −毒殺された−  という説が有力である。

 八郎の妻お蓮への追悼詩
  ・さくら花 たとひ散るとも ますらをの 袖ににほひを とどめざらめや
  ・艶女が ゆく方も知らぬ 旅なれど たのむかひあり ますらをの連れ
  ・壮士の 林と見らる 我が宿を 清くあつかふ 長の年月
  ・名や栄ふ あるじのために 身をすてつ 清き心を いつも変へねば
  ・変わるまじ たとひ先がけゆくとても 長くつれそふ 年の塊
  ・憂きなかに 身は沈むとも 真心を 人に伝えて 何怨むらむ
  ・御世のため 抜けてし人の 妹なれば 身をすててこそ 名をばとどめむ
  

八郎は深い悲しみに落ちていった。。。
 
◎浪士組の黒幕になる

 人生とは不思議なものだ。つい昨日までは幕府の罪人だった八郎が、一夜にして幕府の救世主になったのだから。
 当時の幕府は朝廷から「攘夷の決行」を迫られて苦しんでいた。形だけでも攘夷の姿勢を見せなければならなかった。悩みはそれだけではない。憂国の志士が全国にあふれ、飢えた狼のように江戸中を彷徨っている。これらの浪士たちを集めて京都に厄介払いできたら江戸の掃除にもなるのだ。幕府は八郎の建白に飛びつき、「浪士組」の編成を許可した。
 
 一方、八郎の考えはまるで違っていた。八郎の目的はあくまで倒幕でああり、攘夷だ。幕府は頭から攘夷を行う気持ちはない。攘夷のための浪士組をつくってお茶を濁そうという魂胆だ。八郎の頭はめまぐるしく回転した。
 浪士組の編成は虎尾の会の同志が精力的に動き、近藤勇、土方歳三など234人も集まった。浪士取扱には虎尾の会同志の幕臣・山岡鉄太郎と松岡万である。八郎は何の役にもつかず超然としていた。黒幕である。
 文久3年(1863年)2月8日、浪士組234名は小石川伝通院から京都に向けて出発した。名目は攘夷決行を朝廷に約束するため京都に上っている将軍・家茂の警護である。もちろん八郎にはそんな気持ちはさらさらない。
 2月23日、京都の壬生に到着した一行はその夜、八郎に招集されて新徳寺に集まった。
 
◎尊皇攘夷の魁となるが本分

 八郎は全員の前に座ると大音声で語り出した。
「われわれは幕府の募集に応じたが、本分は尊皇攘夷にある。幕府とはなんらかかわりがない。天皇のため、日本のために立ち上がるのだ!」

 こう言って浪士組として朝廷の判断をあおごう、と皆に署名を求めた。将軍の警護のためと聞いていた皆はびっくりした。幕府を離れ、直接朝廷の命令をもらおうというのである。これは明らかに幕府を倒すための軍隊である。八郎の迫力にのまれ、全員が学習院(当時、朝廷の政治家たちが詰めていた)に提出する上書に署名した。 
 いや、一人だけ署名しなかった。虎尾の会同志の池田徳太郎だ。

「君の首すじも細くなったなあ・・・」

 と池田はつぶやいて去っていったという。 苦楽をともにしてきた古くからの同志がなぜ?
 ここに清河八郎の悲劇の謎があるのではないだろうか。池田のこの言葉は、はからずも2ヶ月後の八郎の最期を予言するものとなった。

 学習院への上書は受理され、浪士組あてに勅諚(天皇のお言葉)をもらった。身分の低い浪士が天皇から勅諚をもらうなど前代未聞の出来事である。

「文久3年2月29日、朝廷勅諚を壬生浪士清河八郎に下し、攘夷実行を奨励あり。松平容保(京都守護職・会津藩主)これを聞いて驚く」
 と公式文書に残っている。幕府はびっくり仰天したのである。

 浪士組は幕府の軍隊から天皇直属の軍隊になった。目的は攘夷。もはや八郎の勢いは幕府にも止められなくなった。尊皇攘夷の中で八郎は今やトップランナー的存在となった。さっそく長州藩士・伊藤俊輔(博文)や土佐藩士・吉村寅太郎らが八郎に会いに来た。
朝廷が浪士組に下した命令は、江戸での攘夷決行だった。
 しかし、江戸に戻る段になって、八郎の策を批判していた芹沢 鴨、近藤 勇ら13名が京都に残留し、京都守護職・松平容保の配下になりたいと申し出た。

「みすみす幕府の犬となるか!!」

八郎は激怒し一喝し、今にも斬り合いが始まりそうな勢いだったのだが、純粋に将軍の護衛のため、幕府のために浪士組に入隊した彼らにとって、八郎の策は受け入れられないものであった。
やむなく、八郎は彼らの残留を認めるしかなかった。
 この13名に始まり、最終的には24名の残留となり(浪士組以外の浪士含む、斎藤一など。)、残留浪士は壬生浪士組となり、後の新撰組結成にいたるのであった。

 3月28日、八郎率いる残りの浪士組が江戸に到着した。朝廷の勅諚を下されているのだから、八郎は堂々と攘夷が可能になった。八郎は決行の日を4月15日と決めた。攘夷の魁となるその計画とは、横浜に火を放って外国人を斬り、海に石油をまいて黒船を焼き払う。その後、甲府の役所を落としてそこで尊皇攘夷の旗をかかげ、全国に号令をかける、という雄壮なものだった。清河八郎の天下はすぐ目前に迫っていた・・・


◎幕末の風雲児、ここに死せり

 本当にこれでいいのだろうか?
 アメリカをはじめ西洋国が烈火のごとく怒り、日本を攻めてくるかもしれない。おそらく八郎にはそんな迷いが生じたのかもしれない。しかし、賽は投げられた。自分が生きている限り、攘夷を決行しなければならないのだ。

 同志・山岡鉄太郎の義兄・高橋泥舟が八郎に言った。

「あなたは幕府に狙われている。もう十分やるべきことはやったのだから、身を隠してはどうか」

 八郎はいつになく気弱になって、ふと思った。

「一度、故郷の清川村に帰ってみるのもいいかもしれないな」

 攘夷決行の二日前、運命の4月13日が明けた。八郎は寝床の中で、風邪をひいてぼんやりした頭で故郷の父母のことを思った。八郎の身代わりとなって牢獄で死んだ妻・お蓮、それに同志たちを思った。記憶はさらにさかのぼり、4歳の頃、八郎の一言で斬首された15人の村人たちのことを思った。

 そうだ、今日は八郎が尊敬している郷里の先輩である上山藩士・金子与三郎に招待されていたのだった。八郎は銭湯に行って身を清め、ふらりと山岡家のとなりの高橋泥舟の家によった。そして泥舟の妻・お澪に3つの扇を、求め、歌をさらさらと書いた。

  ・魁て またさきがけん 死出の山 迷いはせまじ 皇の道
  ・くだけても またくだけても 寄る波は 岩かどをしも うちくだくらむ
  ・御代のため 抜け出し人の いもなれば 身を捨ててこそ 名をばとどめん


 この歌をみて不吉なものを感じた泥舟は、
「今日は家を出てはいけない、酒でも飲んでゆっくりと養生したほうがいい」
と八郎に言い、妻にもきつく言って登城していった。

 金子与三郎が手配した駕籠が八郎を迎えにやってきた。八郎は「約束を破ってはならないので」と言い残し駕籠に乗った。
 麻布の上山藩邸で酒を飲み、午後4時過ぎ、金子のもとを辞した八郎は、夏の到来を思わせる夕風に酔った頬を涼ませながら麻布一ノ橋を渡った。

「清河先生、お久しぶりです。本日はどちらまで?」

 講武所剣術方の佐々木只三郎が声をかけてきた。浪士組取締出役も務めている会津藩士で、かつて八郎にぐうの音もでないくらい論破されたことのある男だ。小太刀では日本一といわれる剣士だが、剣道場でも八郎にさんざん負かされていた。
いやな予感が走った。

 佐々木は陣笠取ってていねいに挨拶をした。
 八郎も陣笠に手をかけ、挨拶をしようとしたときだった。突然、後ろから斬りつけられた。うっとうめく間もなく、佐々木が前からすかさず斬りつけた。八郎の首がぐらりと揺れ、その場に倒れ伏した。


 幕府から任命された6人の刺客(暗殺者)によって、回天の志士・清河八郎の34年の生涯はここに閉じたのであった。
4年後、幕府が崩壊し新国家が誕生した。が、実質上は長州と薩摩が中心の新政府だったため、東北の一僻村から出た八郎はなかなか認められず、贈正四位を授けられるのに没後45年もの歳月を要した。唯一、新政府で八郎の真価を知る明治天皇の侍従・山岡鉄太郎は「八郎を語ることは自らを語ることになる」と言って、口を閉ざし通した。

 昭和8年、文武両道の神として、八郎を祭る清河神社が落成した。
                                                      

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