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回天の魁士〜清河八郎物語〜
誕生〜幼少・青年時代

◎あととり息子誕生

 天保元年(1830年)10月10日。
 現在の暦では11月末に当たる。冷たい雨が激しく降る日だった。その雨を切り裂いて稲妻が光り、地を震わす。
 清川村(現在の庄内町清川)の斎藤家では、二人の男がそわそわしていた。昨年結婚したばかりの豪寿(ひでとし)に念願の子供が生まれそうなのだ。21歳と若い息子の豪寿よりも落ち着きの無いのは、41歳で初孫を目前にした当主の昌義だった。
 同じころ、鶴岡の実家で初めての出産を迎える豪寿の妻・亀代は、急激に増した陣痛の痛みよりも、障子の外を一瞬真っ白に染める稲光と、地を震わす雷鳴のほうにおびえていた。
 妊婦、とは言っても亀代は今でいう中学3年生の年齢である。ズンと、雷鳴が腹に響くたびに亀代は悲鳴をあげる。そのため伯母たちは亀代の両耳をふさぐのに忙しい。と、そんな雷鳴がひときわ高く鳴り響いたとき、それに負けない大きな赤ん坊の泣き声が部屋を満たした。
 雨と雷鳴の中、鶴岡から清川までの6里(24km)の道を使いの者がひた走った。

「生まれたか!! な、なに!?男の子だと!!!」
 昌義は、初孫が男児と知って小躍りし、さっそく駕籠を仕立てて鶴岡の三井家に向かった。なるほど、元気な男の子だ。生まれたとき雷をも圧しただけあって、泣き声に力がある。鼻筋が通り、不敵な面構えをしている。

  「これは大物になるぞ!!」
 昌義は生まれた子を見るなり喜びの声を上げた。そして自分の幼名・元治にちなんで、元司と赤ん坊に名付けた。斎藤元司、のちの清河八郎の誕生である。

◎八郎、4歳の事件

  天保4年(1833年)、清河八郎、4歳の時である。この年は春先から天候が悪く、日照りが続いたり大雨が降ったりした。6月に降った大雨は、最上川の水かさを一気に6メートルも押し上げ、清川村の戸数250戸のうち50戸を押し流してしまった。
 続いてやってきた夏は冷夏で、秋には大雪が降り、大地震さえ起こる始末だった。これが「天保の大飢饉」の始まりで、このような状態が天保10年ごろまで全国を襲った。
 ところが庄内藩は食べる物がなく苦しむ農民を助けるどころか、凶作の時に備えておく農民たちのための備蓄米さえも取り上げてしまった。年貢の米が入らなければ藩も成り立たない。そのため、飢饉の時こそ平年よりいっそう厳しく取り立てたのだった。
 村では食べる物がなくなった。しかし、唯一、斎藤家の土蔵に、年貢として取り上げられたばかりの藩の預かり米がまだ眠っている。それを狙って、11月の下旬、16人の義賊たちが斎藤家に忍び入った。
 
「米を出せ!」と刀をかざし、脅しつけて米蔵を襲い、11俵の米俵を奪って逃げた。

 藩の預かり米が盗まれたとなると、庄内藩の威信にかかわることである。大勢の役人が清川村にやってきた。厳しい取り調べが続いたが、義賊たちは闇にまぎれ顔をかくしていたため、分からない。まして村人たちは、たとえ義賊たちを知っていても、答えるはずがなかった。もし、盗まれた米と義賊たちが見つからなかったら、斎藤家の責任となり、家財没収、一家追放、当主は斬首獄門の刑にされる。
 1ヶ月前、斎藤家では貧しい人々のために、米15俵を村に寄付したばかりだ。それなのに、藩の預かり米だというだけで、たかだか11俵ごときの米でなんとしたことか・・・。祖父の昌義ががっくりと肩を落としていると、

「あれは伝兵衛の声だったし、それから市太郎もいたよ」
 蔵の酒造用大釜の陰に隠れて一部始終を見ていた4歳の元司(八郎)が、その夜の義賊たちの声や体格を思い出して言った。
 それがきっかけで、16人の義賊すべてがつかまり、盗まれた米もそのままの状態で見つかった。4歳といえば、今の幼稚園の年少組である。昌義は八郎の賢さに驚いた。
 捕まった16人は、手荒く鶴岡まで引き立てられていった。しばらくして、15人が斬首の刑に処せられ、雪ぞりに乗せられた胴体からこぼれる血で、鶴岡から清川村へ続く道が真っ赤に染まった。
 村人たちは役人を憎み、斎藤家を憎んだ。

 その憎しみはさらに斎藤家のあととり息子、4歳の元司(八郎)に向かった。

◎井の中の蛙ではいけない

「この、ろくでなしめ!出て行け!」

 清水郡治先生の大目玉が落ちたのは八郎13歳の時である。元司(八郎)は7歳のころから、「論語」などを父に学び、3年前から鶴岡の母の実家にとどまって2つの塾で勉強していたが、この日、ついに清水塾を退学させられた。
 元司(八郎)は落ち着きがなかった。じっと正座しているのが何よりもつらい。つい、度の過ぎたイタズラをする。飽きてしまえばプイと勝手に帰ってしまう。
 そんなやんちゃな坊主が15歳の正月、斎藤家の「家系図」をじっくり読んだ。家系図といっても40年近く前の大火で燃えてなくなったものを、記憶にもとづいて再現したものである。だからどこまでが正しいのか、わからない。
 「清和源氏、斎藤外記という武将、源義経からいただいた鬼王丸という刀・・・へえ、斎藤家は代々、かなりの家だったのか。けれど・・・」
元司(八郎)は思った。結局たった1回の火災で家系図が燃えてしまったら、名前すらも忘れられてしまう程度のものではないか。過去は過去、問題は自分がどういう人物になるかだ。

「男と生まれたからには、平凡に日を過ごしてよいものか。名を天下にあげ、我が家の名を後世に輝かせねばならない。そのためには江戸に出て学問に励もう。」
 孔子は、「論語」の中で「吾十有五にして学に志し、三十にして立つ」と言っている。元司(八郎)もまた15にして学を志す決意をした。

 元司(八郎)は14歳の4月から清川関所の役人、畑田安右衛門について学問をしていたが、さらに勉強するようになった。そして、それに負けないくらい大いに遊んだ。

 やがて、元司(八郎)を運命とも言うべき出会いが待ち受けていた。
 弘化3年(1846年)5月、竹洲と名乗る南画の画家との出会いである。備前岡山藩士・藤本鉄石、31歳。後に天誅組総裁となる人物で、文久2年(1862年)、京で八郎と運命的な再会をすることになるが、この時期鉄石は東方諸国を旅し、清川村に来て斎藤家の客となったのである。
 斎藤家では昔から文人墨客を厚くもてなしてきた。祖父の昌義は書斎「寿楽堂」を建て、父の豪寿は来客に備えて「楽水楼」を建てた。豪寿は俳人としても名をなしていた。

「予定の許す限り、滞在してください」

 最も喜んだのは多感な17歳の元司(八郎)である。また、鉄石も真っ直ぐな元司(八郎)を気に入り、非凡なものを感じ取っていた。鉄石は斎藤家滞在中に元司(八郎)の坐像を描き残している。(清河八郎記念館蔵)
 鉄石の語る江戸、京都、様々な有名な文人たち全てはまだ見ぬ世界だった。井の中の蛙。元司(八郎)は清川というちっぽけな一村落の金持ちの家に生まれたことをひどく恥ずかしく思った。
 鉄石の話は書画、文学の話にとどまらない。広く世界のこと、イギリスと清国(中国)のアヘン戦争以後、フランス、オランダ、イギリス、ロシアが第二の清国を求めて日本を狙っていることなど、八郎はおのずと体が震えてくるのを感じた。

 「広い世界に出て学問をしなければならない。」
 15の正月に誓った、「学への志」が一気に吹き上がってきた。             

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