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清河八郎人物図鑑
新撰組と新徴組
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◎新撰組(しんせんぐみ)−京都を守った会津藩−

 文久3年(1863年)、清河八郎の進言による浪士組が幕府により結成され、234名と役員30名を率いて京へ上洛する。
  「我らの目的は将軍警護ではなく、攘夷の魁となるためである。」
と、八郎は壬生新徳寺で浪士の前で真意を宣言する。このとき、八郎に反対し京に残った13名(【近藤一派7名:近藤 勇・土方歳三・沖田総司・永倉新八・山南敬助・原田佐之助・藤堂平助 【芹沢一派6名:芹沢 鴨・平間重助・新見 錦・井上源三郎・野口健司・平山五郎)が後に新選組となる。残留浪士は最終的に24名となり、京都守護職・松平容保(会津藩主)の配下に入り、「壬生浪士組」となる。尊皇攘夷志士を排除し、京都の治安維持の為の集団であった。
浪士組名簿
浪士組廻状留(浪士組隊士名簿・近藤、土方、沖田ら、のちの新選組の面々など) 【清河八郎記念館蔵】


■新撰組結成

 鵜殿鳩翁は、浪士組の殿内義雄家里次郎に残留者を募るよう指示。これに応えて試衛館派、水戸派、殿内以下、根岸友山一派などが京の壬生村に残ったが、根岸派は直後に脱退、殿内・家里は排斥され、同年3月、新選組の前身である「壬生浪士組」(芹沢一派は「精忠浪士組」とも名乗った)が結成される。その目的は公武合体に基づく攘夷断行の実現に助力することであった。
 壬生村の八木邸や前川邸などを屯所とし、第一次の隊士募集を行う。その結果36人余の集団となった壬生浪士組は、京都守護職・松平容保より、主に尊攘激派(勤王倒幕)浪士達による不逞行為の取り締まりと市中警護を任された。
 同年8月に起きた八月十八日の政変に出動し、壬生浪士組はその働きを評価される。そして、新たな隊名を拝命する。ここに幕末史に名を残す『新選組』が誕生した。
 なお、隊名は武家伝奏(当時は野宮定功飛鳥井雅典)から賜ったという説と、会津藩主・松平容保から賜ったという二つの説がある。

■新撰組の発展
 文久3年(1863年)9月、近藤・土方ら試衛館派は、芹沢 鴨ら水戸派を粛清して隊を掌握し、近藤を頂点とする組織を整備する。元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では尊王攘夷派の蜂起の計画を未然に防ぎ、また、禁門の変でも戦った。池田屋・禁門の変の働きで朝廷・幕府・会津藩より感状と200両余りの褒賞金を下賜されると、元治元年(1864年)9月に第二次の隊士募集を行い、更に近藤が江戸へ帰郷した際に伊東甲子太郎らの一派を入隊させる。新選組は200人を超す集団へと成長し、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺(京都市下京区)へ本拠を移転する。慶応3年(1867年)夏頃には幕臣に取り立てられる。
 慶応3年3月、伊東甲子太郎らの一派は思想の違いなどから御陵衛士を拝命して隊から分派するが、同年11月、新選組によって粛清される。

■解散
 慶応3年(1867年)11月、第15代将軍・徳川慶喜「大政奉還」を行った。旧幕府軍と共に「鳥羽・伏見の戦い」に参戦するも、新政府軍に敗北。その後、榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦で江戸へと移動した。新選組は幕府から、新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ「甲陽鎮撫隊」へと名を改め出撃するも敗戦。甲州勝沼の戦いの後、江戸に戻ったが、方針の相違から永倉新八、原田左之助らは分離して「靖兵隊」を結成した。近藤勇、土方歳三らは再起をかけ、流山へ移動するも、近藤勇が新政府軍に捕われ処刑され、沖田総司も持病であった肺結核の悪化により江戸にて死亡した。新選組は宇都宮城の戦い、会津戦争などに参戦するが、会津では斎藤一らが離隊する。その後蝦夷共和国の成立を目指す榎本武揚らに合流し、二股口の戦い等で活躍する。新政府軍が箱館に進軍しており、弁天台場で新政府軍と戦っていた新選組を助けようと土方歳三ら数名が助けに向かうが土方歳三が銃弾に当たり死亡し、食料や水も尽きてきたので新選組は降伏した。旧幕府軍は箱館の五稜郭において新政府軍に降伏した。(箱館戦争

■新選組年表
新撰組(近藤・土方・沖田)

【文久3年(1863年)】
 ・2月  8日  浪士組が江戸を出発、2月23日に京都へ到着
 ・3月 12日  会津藩お預かりになり、壬生浪士組と名乗る
 ・3月 25日  殿内義雄刺殺
 ・6月  3日  大坂の力士と乱闘
 ・8月 12日  大和屋焼き打ち
 ・8月 18日  八月十八日の政変
 ・9月 13日  新見錦切腹(異説あり)
 ・9月 18日  芹沢鴨、平山五郎が内部抗争で粛清され、平間重助脱出(異説あり)
 ・9月 25日  壬生浪士組が新選組に名を改める
 ・9月 26日  御倉伊勢武、荒木田左馬之助、楠小十郎、長州藩の間者として粛清
 ・12月27日  野口健司切腹
【元治元年(1864年)】
 ・5月 20日  内山彦次郎刺殺
 ・6月  5日  池田屋事件 安藤早太郎、新田革左衛門ら死亡、奥沢栄助戦死
 ・6月 10日  明保野亭事件
 ・7月 19日  禁門の変
 ・8月頃     近藤勇の態度に遺憾を感じた永倉新八、原田左之助、斎藤一、島田魁
           尾関政一郎らが会津・松平容保に非行五ヶ条を提出。
 ・10月27日  伊東甲子太郎ら新選組に入隊
【慶応元年(1865年)】
 ・1月  8日  ぜんざい屋事件
 ・2月 23日  山南敬助切腹
 ・3月 10日  西本願寺へ屯所を移す
 ・9月  1日  松原忠司死亡
【慶応2年(1866年)】
 ・2月 15日  河合耆三郎切腹
 ・4月  1日  谷三十郎死亡
 ・9月 12日  三条制札事件
【慶応3年(1867年)】
 ・3月 20日  伊東甲子太郎、藤堂平助ら13人離隊
 ・6月 10日  幕臣取り立てが決まる
 ・6月 15日  不動堂村へ屯所を移す
 ・6月 22日  武田観柳斎刺殺
 ・11月18日  油小路事件 伊東甲子太郎、藤堂平助、毛内有之助、服部武雄ら刺殺
 ・12月 7日  天満屋事件
 ・12月18日  近藤勇が狙撃され負傷
【慶応4年(1868年)】
 ・1月  3日  鳥羽・伏見の戦い 隊士2名が戦死
 ・1月  5日  淀千両松の戦い 井上源三郎ら14名戦死
 ・1月  6日  橋本の戦い 隊士4名が戦死
 ・1月 10日  新選組、軍艦富士山丸と順動丸で江戸に向かう 途中山崎烝死亡(異説あり)
 ・3月  6日  甲州勝沼の戦い 隊士2名が戦死
 ・3月 12日  永倉新八、原田左之助ら靖兵隊となり離隊
 ・4月  2日  下総流山に陣を敷く
 ・4月  3日  近藤勇、新政府軍に投降する
 ・4月 12日  土方歳三、旧幕府軍に加わる
 ・4月 19日  宇都宮城の戦い
 ・4月 25日  近藤勇、板橋で斬首
 ・閏4月25日  白河口の戦い
 ・5月 17日  原田左之助死亡(異説あり)
 ・5月 30日  沖田総司、肺結核により死亡
 ・8月 21日  母成峠の戦い
 ・8月 24日  山口二郎、池田七三郎ら13人会津に残留
 ・10月26日  旧幕府軍、箱館・五稜郭へ入城する
【明治2年(1868年】
 ・4月 13日  第一次二股口の戦い
 ・4月 24日  第二次二股口の戦い
 ・5月  5日  市村鉄之助箱館脱出
 ・5月 11日  一本木関門付近で土方歳三戦死
 ・5月 14日  相馬主計新選組局長就任 弁天台場の新選組、降伏する
 ・5月 18日  旧幕府軍降伏 戊辰戦争終結

■局中法度・内部粛清
 局中法度(局中法度書)は「軍中法度」と並び新選組の規律維持のために定められたとされている。成立は会津藩預となった浪士組時代に近藤ら試衛館派から芹沢ら水戸派に提示されたと考えられている。
 法として機能し始めたのは「新選組」と名を改め近藤・土方を中心とする組織が整ってからで、伊東甲子太郎ら一派の粛清の際にも適用されたといわれる。第一条「士道ニ背キ間敷事」など抽象的な内容で、解釈は局長や副長の一存に委ねられるものであった。鳥羽伏見の戦い以前に、新選組隊内において粛清された隊士は初代局長芹沢鴨や新見錦らを含めて41名であり、池田屋事件で戦死した隊士は3名である。
 子母沢寛の著書『新撰組始末記』で紹介されて以来、有名となり、以下の5ヶ条として知られるが、同時代史料にはこれを全て記録した物は現在までのところ発見されていない。しかし、明治になってから永倉新八が残した回想録には、法度「禁令」という物があり ここには「私ノ闘争ヲ不許」を欠く4ヵ条が示されている。そのため、局中法度とは、この禁令に、別に定められていた「軍中法度」を混ぜて子母沢が創作したものと推測されている。また、天然理心流入門の際に誓約させられる神文帳との類似性も指摘されている。

    一、士道ニ背キ間敷事
    一、局ヲ脱スルヲ不許
    一、勝手ニ金策致不可
    一、勝手ニ訴訟取扱不可
    一、私ノ闘争ヲ不許
    右条々相背候者切腹申付ベク候也


■治安維持
後述する数々の創作物の影響もあり、幕末、京都の治安維持の主力を担っていたのは新選組であるとの認識も一般には強いが、実際は重要な御所近辺は会津直轄隊の精鋭2000人、その周りは幕臣で構成される見廻組500人が固めていた。新選組はというと200人で京都の端の伏見などを担当していた。

■羽織

 袖口を山形の模様(ダンダラ模様)に白く染め抜いた浅葱色(薄い水色)の羽織を着用していたとされ、映画などでは隊士はほとんどこの姿で表される。羽織のダンダラは忠臣蔵の赤穂浪士が吉良邸に討ち入りするときに着ていた羽織の柄で、浅葱色は武士が切腹の時に着る切腹裃の色だと伝えられているが、羽織は実際には最初の1年ほどで廃止されたらしく、池田屋事件の時に着用していたとする証言が最後の記録である。作ったのは大文字屋呉服店(現在の大丸)。一説では、大文字屋では無く「呉服問屋・菱屋」と言う話もある。また、誠の文字を染め抜いた隊旗は高島屋で作ったと言われている。



■隊旗
新撰組の旗
■新撰組の旗■
 赤地に白字で「誠」を染め抜き、隊服と同じようにダンダラが入っていたとする隊旗が一般的。 「誠」という字が旗が揺れたときに、近藤の実家「試衛館」の「試」に見えるからという理由も隠されているらしい。近藤派の存在を大きくしたかった土方の野望だとも言われる。 他にも隊旗がありすべてで6種類とされている。
■医師
幕府西洋医学所頭取の医師である松本良順は近藤勇の招きで隊士の診察を行い、戊辰戦争でも軍医を務めた。 なお、松本良順は新選組に豚を飼うようすすめ、西本願寺駐屯時に神戸から子豚を持ち込み養豚させ豚肉を隊士に食べさせていた。解体は木屋町の医者南部精一の弟子に頼んでいたという。

■組織
 新選組は局長を頂点に副長が補佐し、以下に副長助勤、監察方(諜報)や勘定方(会計)などを配置した。副長助勤は組長として平隊士を統率した。各組は一番から十番まであり、各組の人員は十人前後。また、組長の下に伍長を置いた。なお、新選組の組織編制は、職務の複数制を原則とする江戸時代の各組織と違い一人制であり洋式軍制などの影響が指摘されている。
 隊士達は日常的には武術の稽古や京都市内の見回りや潜伏している浪士の探索などを行った。剣術集団である新選組は、中心となる近藤ら試衛館の天然理心流に加えて神道無念流、北辰一刀流などさまざまな剣術流派に加え、槍術や柔術などを学んだ隊士もおり、実戦本意の集団戦法の集団であった。
 結成当時には財政難であったと推測されるが、京都守護職配下時代は、隊の運営資金を会津藩からの御用金で賄っていた。また、一部は豪商などから提出させた。その後、幕府配下になると、各隊士は幕府から給料を得た。諸々の事件への出動により報償金が下されることもあった。 

●新撰組についての総合サイト→
幕末維新!新撰組


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