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清河八郎人物図鑑
「性格」と「癖」

 子供の頃はいたずらっ子でやんちゃ坊主、一度言い出したらあとには引かない頑固者。八郎は、二度、父母に背いている。学問をしに江戸へ家出したことと、遊女・お蓮と結婚したことである。しかし「信念」「誠実」の人だった。親に背いてでも学問という信念をつらぬき、身分の高低にとらわれず真の愛情を重んじる誠実さである。
  母をつれての伊勢参りの旅は八郎のやさしさと親孝行ぶりが如実にあらわれている。母の老後の楽しみにと書きつづった旅の記録「西遊草」は半年の間、一日も休まず筆記した。また、とんでもない記録癖で、自分の誕生の時までさかのぼって日記を書いたり、「潜中紀略」など、逃亡生活をしながら全国に志士を求めて旅していた時の記録は2部ずつ残している。


清河八郎銅像
 一言で言うなら、八郎は行動の人で、好奇心が並外れて旺盛だった。北は蝦夷(えぞ:北海道)の松前、函館から南は九州一円を回っている。蝦夷ではロシアへの脅威に松前藩がどのような守りをしているのかを視察に行き、蝦夷地図を筆写している。外国への関心はとても強く、外国船とそれに備える砲台を見に神奈川の浦賀に行ったり、九州・長崎の出島に商人の格好で入り、オランダ商館を見学している。
少年八郎  清河八郎が現代に生きていたら、まず文学にのめりこみ、次に政治を学んでジャーナリストか学者になったことだろう。しかし、それにあきたらず、最終的には政治家になったかもしれない。 

  情熱家はおうおうにして激烈家でもある。八郎は短気でカッとなると止まらないところがある。いったん議論を始めると相手を徹底的に追いつめる悪い癖があった。学問や議論においては決して妥協しない、という点で日本人的ではない潔癖さがあったのかもしれない。しかし、その真っ直ぐな人柄と行動力こそ八郎という人物であり、人望があったことは草野剛三の記すところである。
 
■同時代人の「清河八郎」評
●山岡鉄舟(山岡鉄太郎) 

【八郎、暗殺されたときの嘆き】

「ああ、天、この奇傑を亡ぼす」
●高橋泥舟
【「泥舟遺稿」より】

「私が初めて正明(清河八郎)に面し、その天性猛烈であって、正義の念強く体格堂々、威風凛々、音声は鐘のようで、眼光人を射る。私は一見して凡人超越の俊傑であることを知る」
【「史談会速記録」より】

「平素はじつに淡泊なもので磊々落々(らいらいらくらく)たるもので・・・文武の男でしたな。しかし議論をする時分には、だれでも自分の思うとおり、やっつけてしまいますので、私はよっぽど、それはいけないからよせと言って忠告しましたが、性質でしたから直りませんでしたな」
●西川練造の長女・澄
(虎尾の会同志)
「清河さんは背が高く、色が白い気品のある方でした」
●草野剛三
(浪士組隊士・のち中村維隆)
【「史談会速記録」より】

 − 清河の一体の見識はどうでしたか。

「見事な尊い男でした。私も随分種々の人と交際して知っているが、・・・えらい男でした。のみならず仁心のある人で、私が病中の時などは、私は木綿物を着ていたが、その時に自分の着ていた物を脱いで、これを着て早く病気を良くしてくれろと言って、置いていった」

 − よほど人望はあったと見えますな。

「人望はありましたな。あの頃の儒者が一歩譲っていた」
●佐田白茅(志士真木保臣の先輩)
「史談会」の中心人物
【「史談会速記録」より】

「八郎が一の英雄豪傑であった」

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