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■もうひとつの八郎暗殺計画

 八郎の建言によって集まった浪士組。
 文久3年(1863年)2月23日、浪士組一向が、京都に到着し壬生村へ入り、八郎は浪士組を新徳寺の本堂へ集め、尊皇攘夷論を演説。突然の話に浪士たちは困惑した。しかし八郎の鬼気迫る演説とその迫力に圧され、浪士たちは血判するのだった。翌日、八郎はこの血判による上表文を御所に提出する。八郎のやり方に不満だった芹沢 鴨・近藤 勇らは京に残留する旨を八郎に言い放つ。八郎は、怒り心頭で「お勝手に召されい!」と畳を蹴って席を立った。
 芹沢・近藤ら13名はその足で、浪士組の責任者・鵜殿鳩翁を訪ね委細を話すと鵜殿も芹沢らの意見に同意し、京都守護職で会津藩主・松平容保預りということになった。(のちに壬生浪士組⇒新撰組となる)そして、ほどなく浪士組頭・板倉勝静より、芹沢らに八郎暗殺の内命が伝えられた。
 ある日、八郎が山岡鉄太郎と2人だけで土佐藩邸へ出かけることを聞きつけた芹沢らは、二手に分かれ、芹沢は新見・山南・平山・藤堂・野口・平間の6名とともに四条堀川に、近藤は土方・沖田・永倉・井上・原田の5名を同行して仏光寺堀川で八郎の帰りを待ち伏せた。
 夜も更け、人通りも少なくなった頃、八郎と山岡は四条堀川を通りかかった。
 これを見た芹沢は、八郎の背後から抜き打ちにしようと近寄ったが、山岡の懐中に御朱印があることに気づき、御朱印に剣をかざすことは、将軍家に敵対するのと同じ意味を持つと当時の武士は考えていたため、芹沢はついに剣を抜かずに終わった。

 近藤は、文久3(1863)年5月、郷里に宛てた書簡で、八郎暗殺の報告を受けて、本来は京で清河八郎ら6人に誅戮を加える予定であった旨を伝えている。

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清河八郎人物図鑑
清河八郎暗殺秘話
八郎暗殺イメージイラスト

◎八郎暗殺の背景
 

 「我らの目的は将軍警護ではなく、攘夷の魁となるためである。」
八郎は壬生新徳寺本堂で浪士の前で真意を宣言する。
 八郎は浪士たちからの署名をまとめた上表文を学習院に提出、そして受理される。そして孝明天皇の御製が添えられた攘夷の勅諚を賜った。
 ちょうどその時、江戸では幕府の外国奉行が生麦事件の代償についてのイギリスからの強硬な談判を持て余していた。そのイギリス側からの条件とは、@島津久光を引き渡す。A賠償金を差し出す。上記いずれかが実行されない場合は軍艦を差し向ける、というものだった。判断に窮した外国奉行は、上洛中の将軍の決裁を求め、二条城に駆け込んだ。
 これを聞いた八郎は、朝廷に2回目の破約攘夷(生麦償金拒絶による開戦)を約束する建白書を上奏。そして八郎は、関東へ戻る旨を浪士組全員に報告するための集会を企画し呼び出し、「この度、生麦事件で英国は強硬な談判をはじめ、次第によっては軍艦を差し向けるとまで脅迫いたしている。我等もとより異人を払う急先鋒にと存ずるにより、まず横浜に参って鎖国の実をあげ、攘夷の先駆けをいたさん所存である」と、横浜での攘夷決行を促す。(これに反対した、芹沢 鴨、近藤 勇ら13人が京都に残留する)
●生麦事件●
文久2年8月21日(1862年)

 薩摩の島津久光が江戸からの帰国途中、相州生麦村(現横浜市鶴見区)を通過のさい、行列に馬で乗り入れた上海のイギリス商人C.L.リチャードソンら4人を殺傷した事件。
 天皇に上表文を提出し勅諚を賜るという奇想天外な事を成し遂げた一介の浪士を幕府が黙っているはずが無かったが、3月3日、「浪士組は、攘夷戦争に備えて東帰せよ」との関白鷹司輔熙からの勅諚が出てしまっているため、破約攘夷(生麦償金拒絶による開戦)を約束する羽目となった幕府はいったん浪士組を江戸に戻すことになる。ここから、幕府と八郎の緊張が高まり始める。 
 幕府は、朝廷に破約攘夷を約束するはめになったものの、浪士組東帰後も、江戸の幕閣は破約攘夷実行の気配を見せなかった。
 明治33年の高橋泥舟の談話によると、高橋は留守老中の水野忠精に攘夷を何度も迫ったが、水野は高橋の意見を全く用いず、八郎は、破約攘夷(生麦償金拒絶による開戦)に踏み切らない幕府に呆れ果て、横浜居留地襲撃を画策し始める。
 横浜攘夷では、同胞・石坂周造らが近在の豪商に金策をし、爆裂弾を中心とする兵器も製造、伝馬船・梯子等も秘密裏に準備を整えた。八郎の不穏な動きを察した幕府は、偽浪士を雇い、幕府東帰浪士組が、あたかも攘夷先鋒と称して豪商を掠奪し、乱暴行為を働いたように見せかけた。(小山松勝一郎著『清河八郎』)
 偽浪士を捕縛した八郎が取調べを行うと、老中格小笠原長行の命を受けた勘定奉行小栗忠順が、浪士組の悪評を流すために、彼らに迷惑行為を指示したのだ自白したと言う。浪士組取締の高橋泥舟が登城して小笠原らを詰問するも、「町奉行所で預かって吟味をする」と言われ、幕府の機関である奉行所で事をうやむやにされてはならじと、八郎は偽浪士を斬首・鳩首にする。
・・・このように幕府と八郎、東帰浪士組の間に緊張が高まり、八郎のもとに続々と参集する何百人という浪士たちが八郎の手先として働くことを危惧し、幕府は八郎暗殺の内命を下す。
八郎は幕府にとって最も危険な人物の一人になってしまった。

◎清河八郎の最後

 文久3年4月13日(1863年5月30日)、清河八郎は出羽上山藩邸の友人金子与三郎宅に招かれその帰宅途中に、一ノ橋付近で待ち構えていた、佐々木只三郎・逸見又四郎・高久半之助らに暗殺された。享年34歳。

  ■八郎が暗殺された東京麻布・一之橋⇒
東京麻布・一之橋
 講武所剣術方の佐々木只三郎は、浪士組取締出役も務めている会津藩士で、小太刀では日本一といわれた剣士であった。しかし、かつて八郎にぐうの音も出ないくらいに論破されたこともあり、剣道場でも八郎に散々負かされていた。
 (清河は北辰一刀流の使い手、真っ向から勝てる相手ではない。)
いかにして清河八郎をに勝つか?佐々木は、八郎の性格を読み、ひとつの賭けに出る。
佐々木只三郎
 佐々木は、「清河先生、本日はどちらへお出かけで」と言って丁寧に陣笠を取って挨拶した。当然、八郎は礼をもって陣笠を取って挨拶しようとした。八郎の両手が陣笠にかかったその瞬間を狙い、後ろから斬りかかったという。すかさず佐々木が前から切りつけ、八郎はうっとうめく間もなくその場に倒れ伏した。
 佐々木只三郎は、八郎暗殺の功により、幕府より京都見廻組のトップに任ぜられ、新撰組と同じく、京都の警備に当たる。佐々木は、土佐浪人・坂本龍馬暗殺の真犯人とも言われている。

←■佐々木只三郎

◎死を予感してたとも取れる八郎の行動

 八郎はは12日の夜、山岡邸で父親宛に手紙を書いている。
「人間の運は限りのあるものです。古今未曾有のこの激動の時代にはなおのことです。いよいよ攘夷のために江戸に戻ってきましたが、太平の世が長く続きすぎたため存分に、というわけにはいかないかもしれませんが、ともかく徹底的に働くよう辛苦しております。生きているうちはどうしても評価が定まらないもの。棺桶に蓋をするときには、長年の赤心(天皇への忠誠心)も天下に明瞭になることでしょう。たとえどのような噂があろうとも、決してご心配しないでください。」
                                    ― 八郎が父へ宛てた手紙より抜粋

 そして、暗殺当日、八郎は郷里の先輩である上山藩士・金子与三郎に招待されていた。この日に限って護衛をつけずに単身で出かけた八郎は、銭湯に行って身を清め、ふらりと友人の山岡鉄太郎の義兄・高橋泥舟宅に立ち寄る。そして、泥舟の妻・お澪に3つの扇を求め、遺書・辞世ともとれる歌を扇に書いて残している。
時世の句 扇
■暗殺当日、高橋泥舟宅で扇に書き留めた辞世の句/清河八郎記念館蔵

  ・魁がけて またさきがけん 死出の山 まよいはせまじ 皇(すめらぎ)の道
   ・砕けても また砕けても寄る波は 岩角をしも 打ち砕くらむ
    ・君はただ 尽しましませ 臣の道 妹は外なく 君を守らむ


 この歌を見て不吉なものを感じた泥舟は、
「今日は家を出てはいけない。酒でも飲んでゆっくりと養生したほうがいい。」
と八郎に言い、妻・お澪にもきつく言って登城していったという。
 しかし、八郎は「約束は破ってはならないので」と言い残し、金子与三郎が手配した駕籠に乗った。。。

 一説として、八郎は4月15日に横浜居留区襲撃を計画していたといわれる。膨れ上がった浪士たちの士気を抑えきれない状況下にあったと考えられ、八郎としては焼討ちを実行すればきっと京都の寺田屋のときと同じになることを悟っていただろう。八郎は浪士組が攘夷を声高に唱えることで充分幕府内潰の起爆剤の役目は果たせたと確信し、襲撃により「寺田屋の変」のような惨劇を招くことを避けるために自分の命を差し出す覚悟があったのかもしれない。八郎の詠んだ3首の歌は親しき者への訣別の挨拶だったように思える。
 『清河八郎』著者の小山松勝一郎氏は、八郎が護衛をつけずに出かけたのは、浪士組横浜襲撃を中止させるために殺されるつもりだったという解釈をしている。確かに、策士と呼ばれる八郎が護衛もつけず単独の行動を取るという「油断」は考えにくい。真実は歴史だけが知っている。

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