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清河八郎人物図鑑
新撰組と新徴組
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◎旅日記「西遊草」〜母との伊勢参り〜

 新徴組(しんちょうぐみ)は、新選組と同じく、清河八郎が進言した浪士組を母集団とする、庄内藩お抱えの浪士隊である。新選組は有名だが、新徴組はそれほど広く知られてはいない。八郎に反対した近藤勇、土方歳三、沖田総司ら試衛館の面々と芹沢鴨ら水戸派志士を残し浪士組は江戸に帰還。八郎の死後、幕府は残った浪士組を新徴組と改名し、庄内藩預かりの江戸市中取締警護にあたらせた。
新徴組の旗
■新徴組の旗■
松ヶ岡
◎昭和61年(1986年)に移築復元された開墾士の住宅  【鶴岡市羽黒地区松ヶ岡】
 庄内藩が江戸取締の任に合ったとき、配下の浪士組織「新徴組」が庄内移住にあたり、藩が1870(明治3)年鶴岡、大宝寺、道形に建てた137棟の住宅を
「新徴屋敷」と称した。そのうち、約30棟が、1875(明治8年)に松ヶ岡開墾の組小屋として移されたもの。その後開墾士の住宅となった。



■新徴組(しんちょうぐみ)結成背景

  幕府は、八郎一団が上洛中に、更に150名ほどの新参浪士を募集したが、その浪士たちの粗暴ぶりに手をもてあましていた。
 文久3年(1863年)3月28日、浪士組が江戸に戻ると、三笠町小笠原加賀守空屋敷に屯所を構える。その折、この新参浪士も合併され、さらに八郎の評判を聞きつけた他の浪士も次々と参集し、浪士組は500名ほどに膨れ上がった。京都での八郎の行動は、江戸にいる浪人や「志士」と称された人々のあいだで大変な評判となり、浪士組が江戸に到着するのを知った水戸藩、南部藩の志士等の中には、江戸はずれまで出迎えに行った者もいた。浪士組は、いまや八郎が事実上の統師者となり、幕府を脅かす攘夷の集団となったのだった。京都での勅諚に基づき、浪士組は幕閣からの攘夷決行の探令を待つことになる。
 しかし、幕府は一向に音沙汰が無く、浪士組に何も仕事を与えなかった。八郎は山岡鉄太郎、高橋泥舟を説いて、閣老の板倉周防守勝静に迫って攘夷の決行を促す。これに対し、佐々木只三郎、窪田治部右衛門等は攘夷決行の主張は国家を危うくするとして、八郎を潰すことも含め、山岡、高橋の排訴に躍起となる。八郎は独力による攘夷決行の覚悟を決め、石坂周造、村上俊五郎等にこれを告げて準備に取り掛かる。浪士組による単独の攘夷決行である。幕府は八郎の影響を恐れ、浪士組の行動から決して目を離せなくなったのだった。事態を重く見た幕府内の策謀家・小栗上野介は、浪士組と八郎の評判を落とすべく、「ニセ浪士組」を放って市中で略奪を行わせた。しかし、すぐに八郎に見抜かれ、八郎は隊士に外出を禁じて偽物を炙り出し、捕まえると三笠町の屯所に引きずり込み、すべての策謀を吐かせて石坂周造、村上俊五郎にその首を切らせた。そして屍体は隅田川に投げ込み、その首は両国広小路に晒し首にしてしまった。高札には幕府の策謀が記され、小栗上野介を恐怖に震え上がられたのだった。
 
 幕府の面目は大いに損なわれ、事態を重く見た幕府は、八郎の暗殺を策謀し、密偵を放つことになる。そして浪士組による横浜外国人居留区焼討計画を察すると、佐々木只三郎、窪田治部右衛門等が共謀して八郎を暗殺する。文久3年(1863年)4月13日、麻布一の橋での惨劇であった。

■新徴組(しんちょうぐみ)誕生
 自ら手を下し八郎を暗殺した幕府閣老たちは、八郎を暗殺したその日のうちに「取締り不行届」として浪人奉行・鵜殿鳩翁を免職とし、山岡鉄太郎、高橋泥舟の両名に閉門を申し渡し処罰する。こうして浪士組の動きを封じた幕府は、八郎暗殺の2日後の4月15日(八郎が横浜襲撃を計画していた日)に、浪士組を「新徴組(しんちょうぐみ)」と命名し、江戸市中警護にあたらせることになる。そして、八郎に傾倒していたとされる浪士は粛清(主犯格の同志・石坂周造、村上俊五郎らは諸藩預かりとなる)され、当初、新徴組は若年寄支配であったが、幕府自体が内部に山岡鉄太郎、高橋泥舟等の八郎親派を抱え、活動が尊王・佐幕のどっちつかずになってしまい、新徴組は活動の方向性を見失い、通行人に乱暴を働いたり、商家に押し入ったりと不行跡が続き、評判も悪くなってしまったのである。こうした事態に鑑み、新徴組は江戸市中警備を受け持つ庄内藩酒井家に預けることに決定した。
 浪士組の実質的な統領・清河八郎の主人筋に当たる酒井氏以外、統率の実力のある藩が無い」としての幕府からの命令だった。
 実際のところは幕府にとっては体のよい厄介払いであり、酒井氏にとっては有難迷惑以外のなにものでもなかった。

 酒井家は、徳川四天王の一人として数えられた酒井忠次を祖にする名家であり、幕府の信任が非常に厚かったため、幕府は扱いに困った浪士組を庄内藩に預けたのである。これにより、これまで五藩で分担していた府中警備は元治元年以降庄内藩に一任された。一方、幕臣から庄内藩預かりへの降格は隊士に衝撃を与え、脱退する者・水戸天狗党に参加する者などが相次ぎ、人数は169名に減少し、さらに102名に減少する。そこで幕府は「将軍家御親類」の松平上総介(浪士組結成当初の取締)を「新徴組支配」とし、幕府と庄内藩による「双方立会」による新徴組の共同監督という形式をとる。
 また幕府は、八郎等一党とは系統を異にする浪人連中を新たに募集し、飯田町黐(もちのき)坂下に屯所を置く。小林登之助を統領とした94名は「大砲組」と称され、八郎派「新徴組」を牽制せんとする幕府の苦肉の策だった。
 そして、文久3年(1863年)9月4日、幕府は新徴組の屯所(三笠町小笠原加賀守空屋敷)を閉鎖して、「大砲組」の住む飯田町黐(もちのき)坂下に屯所を移す。新徴組と大砲組が合併し、新しく「新徴組」が生まれ変わった。同時に事実上の庄内藩酒井氏支配となったのだが、お互い志の違う「旧新徴組」と「旧大砲組」である、まさに犬猿の仲で簡単に溶け合うものでもなく、反感、不満が生じ、61名の散乱者が続出した。これにより、もともとの新徴組は41名減少し、八郎感化の浪士が激減したのだった。新しい新徴組員は206名(大砲組を含む)とある。

■新徴組の命運
 大任を受けた庄内藩は江戸の地理に精通した新徴組を大いに活用し、新徴組も発奮してこの付託に応えた。慶応元年(1865年)に隊が改編され、1番組から6番組(25人一組)で市中をパトロールし、違法の者は例え旗本であろうとも容赦なく討ち果たした。6番組組頭に任命されたのが、新撰組・沖田総司の義兄・沖田林太郎(沖田総司の姉ミツの夫。)だった。(新徴組では屯所に妻ミツと同居していた。戊辰戦争が始まると、家族共々庄内に赴くが、戦後は東京に戻った。) また新選組で粛正された芹沢鴨の一派、残隊士も編入され、新徴組は江戸の不貞浪士の掃討・尊皇攘夷派志士と戦った。江戸町民の評判も良く、まさにヒーロー的存在感を示した。なお従来五藩で分担していた府内取締は幕命によりこの年から庄内藩が一手引受となった。
 これにより江戸の治安は回復し、江戸市中警護が非常に行き届いたものであったので、当時の江戸の人々は、次のように囃し立てたと小山松勝一郎著『新徴組』には書かれている。

   ・酒井佐衛門様お国はどこよ 出羽の庄内鶴ヶ岡
   ・酒井なければお江戸は立たぬ 御回りさんには泣く子も黙る
   ・鶴ヶ岡 松を堅固に 守るなり
    (鶴ヶ岡とは庄内藩の本城所在地。松とは松平)
   ・カタバミはウワバミより怖い
    (カタバミとは植物の片喰で、酒井氏の家紋)

とまで言われるようになった。

 慶応二年以降は洋式兵法の調練も行われた。
 新選組が京で名を上げている頃、同じく新徴組もまた江戸でその名を上げていたのである。
 新徴組は新撰組とも関わりがあり、新徴組隊士中川一と新撰組局長近藤勇とはお互いに手紙で交流を続け、新徴組のちょうちんには、有名な新撰組の山形模様が描かれていたと言われている。(「新撰組史跡事典東日本編」より)
 
 慶応3年(1867年)10月14日、15代将軍・徳川慶喜が「大政奉還(統治権を朝廷に返上)」を行う。しかし、大政奉還は倒幕の名分を失わせるのが目的で、その後の朝廷下の新政権も徳川家主導のものになることが予想され、倒幕派はクーデターにより征夷大将軍はもちろんのこと、摂政・関白その他従来の役職を廃止して朝廷から親徳川派を排除し、天皇親政の新体制(建前上は、摂関政治以前の本来の体制である天皇親政に復古することでクーデターを正当化)の下で討幕派公家および薩長藩閥が実権を掌握することを目指すことになる。
 同年12月9日、朝廷(天皇)は、政権が天皇に移った事を宣言する(王政復古の大号令)。摂関制度(摂政・関白)、幕府を廃し、総裁、議定、参与の三職をおく、というもので、天皇による新政府の成立を宣言するものであると同時に、徳川幕府の廃絶を意味した。一気に倒幕の気運が高まり、討幕派公家および薩長藩閥と幕府との対立が日増しに激しくなった。

 同年12月25日、庄内藩は江戸薩摩藩邸を焼き討ちし、ここに「戊辰戦争」の火蓋が切って落とされた。新徴組もまた、薩摩藩の支藩であった日向佐土原藩邸を襲撃した後、薩摩藩士とも戦う活躍を見せたのだが、年が明けて勃発した「鳥羽・伏見の戦い」では、幕府軍は薩長連合軍に惨敗を喫し、その後、前将軍・徳川慶喜は恭順・謹慎の態度を示した。
 大政奉還後、新徴組は一旦解散したが、隊士は家族と共に奥州の領地に帰る庄内藩に付随して奥州に入った。庄内藩に入った新徴組隊士は鶴岡より8km離れた湯田川の旅館民家37軒に分宿、その中の隼人旅館を本部として部隊を編成した。
 再編なった新徴組は、慶応四年七月二十日付で編成された庄内藩兵第四大隊に付属、矢島藩占領、椿台の戦い等に従軍した。ここで新政府軍相手に奮戦することになるのだが、時代という大きな波のうねりの前にはどうすることも出来ず、最終的に庄内藩もまた降伏することになったのである。
 戊辰戦争後は正式に庄内藩士となり、明治3(1870年)には鶴岡・大宝寺・道形に137戸の屋敷、通称「新徴屋敷」を与えられた。これだけ見ると、新徴組は大いに厚遇されたようにも見えるが、実際には庄内藩は戊辰戦争の処分で十七万石から十二万石に減封された為、藩を挙げての開墾事業に取り組んでおり、隊士達は否応無くこの庄内藩の開墾事業に従事する事になった。しかし、関東出身の浪士が多い新徴組には東北の開拓は厳しく、脱走者が相次いだ。これらの脱走者に対して庄内藩は切腹・討伐等の厳しい処置を以って臨み、十年後の明治14年7月の再調査では新徴組出身者は11名のみに減少していた。

 新選組に比べると、新徴組は知名度がほとんどなく、その最後の悲惨な結末からか、現代においては、歴史上からその名が忘れられつつある。しかし、江戸市中警護に活躍し、当時の江戸市民に感謝された新徴組もまた、幕末という時代を裏から支えた存在であることを我々は忘れてはならない。

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